++エッセイ++
くだらないけど、しぁ〜わせな毎日さぁ♪
---2005年2月の日記---

2005年2月29日(火) 総合病院
今日、友達が体調不良で動けないって言うから、私が病院まで連れていって来た

普通の風邪なら良いのだけど、ちょいやっかいな体質なので、いつも行く大きな病院へ
そこは、隣接でホスピタルもあるような大きな病院なんだよね
しかも今なお改装してる綺麗な病院。

だけどぉ〜〜 とにかく広い!! そして待ち時間が長い!
受付も順番も支払いも すべて機会。 便利なようなんだが・・・・
私はついつい 年輩のお年寄りや障害者の目線で見る癖がついてしまって
若くて、足腰も大丈夫な人ならいいけど・・・
まず、タッチパネルで受け付け。
(ホラホラ慣れないパネルは、あのおじいちゃんなんか指が震えてオロオロしてるよ)
順番札もって、受付で診察表貰って・・・説明受けてるけど・・・
(そこの場所が分からなくて、心細そうな返事声・・・)
案内の人が数人居て、教えてくれるけど・・・
(杖つきながら、こけそうな足で、長い廊下を歩いて行く、どこまで行けばいいの?)
いざ、外来診察の前に来れたけど、案内は電光掲示板・・・順番を呼ぶ声は回りにかき消されて聞こえにくい
内科だけも14部屋もあるし、どこで呼ばれていくのかも?
そして何より、待ち時間の長さ!
具合が悪くて来ているのに、長椅子に座ったまま ずぅ〜〜っと待ち続ける・・・
友達も辛そうだった。
こんなに広い敷地を病院にして、広い廊下作って・・・
で、肝心の病人は狭い椅子の上に居るしかない。これってちょっと違うんじゃ?
例えば、辛い人は横になれるスペースを別に作るとか
せめて、リクライニングの椅子をいくつか用意するとか 何かできないのか?

病院の雰囲気作りも大事だろうけど、本当に大事なのは患者がいかに楽に居られるかだと思う
便利ばかり追求しても、お年寄りはそれについていけない
広すぎる病院内を、上にあがったり下に降りたりして検査ごとにあちこち回されるし
そのたび不便な足で歩いて行かなきゃダメなんだよ
朝から行っても検査ばかりしてると昼になっても帰れない
診察に要する時間より待ち時間のなんて長いことか・・・益々具合が悪くなる
せめて待ってる間、重症の人はどこかで寝かせてあげたいよ

これが今の限界なのだろうか
真新しい病院でも こんな感じなんてね
確かに医療は進んでるだろうけど、町医者では出来ない検査も治療も出来るだろうけど
それに必死についていこうとしてる人の声にも耳を傾けて欲しいな
簡単に見える作業一つでも、それだけで血圧上がりそうなくらいドキドキしながらガンバっているんだよ〜

院内も全部 動く歩道だったらいいのにねぇ


No.37

2005年2月28日(月) 別腹
今日は旦那の会社の新年会だった
雪が急に激しく降り出して、みるみる辺りを真っ白にしていく
そんな中を私はアッシーで旦那を送っていった

まぁいいか、今夜は女だけ、また簡単夕食で済ませるべぇ
と思いながら、しっかり帰りの道でコンビニへ・・・
ホカホカ肉まん買ってきてしまったさ♪それと、冬限定チョコボール♪
今日のおやつだぁ〜♪と思いながらシンシンと降り続く中を帰ってきた

帰宅して、娘らと肉まん食べて・・・ちょいお腹も膨れて、
なにやらそれぞれ娘らは好きな物を食べてるし夕飯はもう作らなくていいかぁって
こんな時楽だよなぁ
時間が出来たから早々に私はPCの前へ・・・
あっちこっちネット徘徊して楽しんでいると?携帯がなりだした!


ん?なんだ?と思いきや、旦那からだった
「もう帰るで迎えに来てくれやぁ〜」と
はぁ〜〜?!もう?? さっき行ったところじゃん、なんでぇ?
二次会は?カラオケは?行かないの? それにそんな早く・・・
今日は会社おごりだし、飲めや食えやの大判振る舞いのはずなのに?

娘と しんじられな〜〜いを連発しながら、迎えは娘に頼んだ。
帰ってくると、一気に家の中は五月蠅くなった
普段はあまりしゃべらないし、テレビ見ててもエヘヘ笑いしかしないような人なのに
外で飲んでくる酒はやたらテンションが高い
突然わけのわからない動きで踊り出すし・・・オイオイ(−−;)って感じだ

しかも、私が楽しみにしていたさっきのチョコボールを見つけると
「お♪旨いもんめっけ♪」と言いながら嬉しそうにそれを食べ出した!! 
それはぁ〜〜〜〜〜〜〜!私の〜〜(T__T)フルフル  
まったく〜〜 お腹いっぱい食べてきたんだろうがぁ!!ゴゥラ〜〜凸(-""-;)

そうこうしてるとヒーターの灯油が無くなってストップしてしまった
「お父さ〜〜ん 灯油いれて〜」と言うが、動かない
こうなったら根比べだ。チョコの恨みをここではらそうぞ! フッフッフ( ̄ー ̄)
しかぁし、旦那は「ちゃっぷい ちゃっぷい」と言いながら ウロウロするだけ

だからぁ灯油いれてってばぁ〜〜
それでも旦那はウロウロと・・・まるで悪代官の前で手をする越後屋みたいに腰をかがめて手を摺りながらウロウロ・・・
戸棚あけて「今年は何年だ?これ食わなあかん、賞味期限きれるぞ」と
(何でも食ってくれればいいけどぉ)
すると今度は冷蔵庫開けて、「ちっぷいなぁ アイス食わなあかん」と
(オイ!寒いんだろうがぁ〜〜!なんでアイスやねん!)

「う〜〜ん、何食おう〜〜ちゃぷいなぁ」
(だから、なんでそんなに食べたいの?!食ってきたんだろうがぁ!!)
まったく〜〜ウロウロと台所をうろつき回るなぁ〜〜〜!!ガウ〜
それでも灯油を入れに行かない。こうなったら私も意地でも入れないぞ!

散々あちこちウロウロして口の中に何やら入れてはモグモグ・・・
で、満足したのか?風呂にはいるわ と(その前に〜〜灯油だろうがぁ〜?)
旦那は自分の背中に毎日貼り付けて行ってるホッカイロをベリッとはがし・・・エヘヘ笑いで嬉しそうに
「ほれ♪これ張ってやろさ、腹にか?背中か?」と
(どこでもいいよ、張ってくれや・・・好きなようにぃヤレヤレ・・・(=_=;)ハァ〜〜)

そりゃ私は肉が分厚いからぁ 寒くないかもしれないけどぉ〜

その後、程良く温まってヌクヌクの体で出てきた旦那は電池が切れたタレパンダの様にホットカーペットの上へゴロン・・・
オイオイ(−−;)湯冷めするぞ〜〜〜
こうなったら暫くは起きない しょうがないなぁ〜〜

仕方ない、私が入れるかな
こんな旦那だけど・・・・元気で居てくれよ〜〜

No.36

2005年2月26日(土) 使命


今日の某ドラマを見て・・・
地震直後の病院の話しだけど、本当にこういう立場の人は辛いよね
実際にそういう思いを過去、日本のあちこちで経験してきた人は沢山いるだろう

私も昔、保育士をしていたとき、当然避難訓練もあった。
幸いなことに、本当に災害に遭ったことはないけど、もし、現実に起きたら?
私は訓練通りに、小さい子供を背中に一人、小脇に一人ずつ、計3人かついで
さらに他の子供達を誘導しながら避難しないといけないが
泣き叫ぶであろう子供達をなだめながら、笑顔で対応できるだろうか?

仮に逃げられたとしても、その後、無事保護者に戻すまで、
私は自分の家族のことは後回しにしなければいけない
どんなに心配でも・・・それが大事な子供達を預かった責任、使命だから

旦那は仕事上、台風の時はまず自分の持ち現場を見に行く。
娘も、以前勤めていた会社へ出向いていった。

天災はいつ自分に降りかかってくるか解らないよね
家族の安否は一番に気になるし、
大切な物が壊れて無くなっていく様を ただ見てるしかない辛さ、悲しさ
そしてそれを目の前で感じながらも、自分の使命は果たさなければいけない辛さ

でも、願わくば、そんな災害には遭いたくない。
考えたくもない。
だけど、あまりにも最近は大きな災害が多いから
今、この何でもない日常が一瞬にして壊れてしまったら?
そう考えたら、どんなに今が幸せな時間か・・・大切な時間か・・・
嫌なことばかり考えちゃ生きていけないけど、今に感謝することは出来るよね

時には、家族でも、こういう話をして、心がけと感謝の気持ちを持たなきゃいけないよねぇ


No.35

2005年2月25日(金) 冬と言えば
毎年、冬と言えば一番お小遣いの減る季節なんだな

何に使うか・・・それは スキー!
例年スキー仲間と計画立てて、お泊まりでわざわざ寒いところへ出かけていく
寒いのが嫌いな友達に言わせれば、なんでそんな所に!なのだが

う〜〜ん、なんでかなぁ〜
転んでも、怪我しても、猛吹雪にあっても、
それでも雪が降り出すと 心がソワソワ・・・ソワソワ・・・
新雪のあとの最高に晴れた日にゃぁもう 朝から気持ちが落ち着かない!
行きたいなぁ 滑りたいなぁ って(^^;)

これはあのゲレンデの爽快感を味わった人にしかわからない感情だろうなぁ
ゴンドラで朝日の中・・・キラキラ光る雲の上に来たときは
まさに、 あぁぁ生きてて良かったぁ〜〜!って気分だよ!

誰もまだ滑っていない白銀のゲレンデを、スノーパウダー舞い散らせながら
一気に滑り降りる爽快感!

ひと滑りして汗かいた後に飲むビールは また最高に旨い!!
ク〜〜〜〜!(*≧・≦*)って感じで
たまりましぇ〜〜〜ん

でも今年はまだ、その計画も立ててないんだよなぁ
一度くらいは行きたいと思って、板はいつものように旦那に磨いてもらってあるけど

ん〜〜いつものメンバーも私に気を遣ってか 声もかけてきてくれないし
寂しいぞ〜〜〜(>。<)

こんな日→リンク←を経験しててもスキーに行きたいんだからねぇ

私って少し・・・いや かなり変人かな?(≧m≦)ププ
No.34

2005年2月24日(木) へそ!
今日、私はかねてより行こうと思っていた銀行と郵便局にハシゴで行ってきた

目的は、小さい預金通帳を解約することと、タンス貯金を預けること
なんせ、近年は給料と言えば振り込み。
しかも会社指定だったから仕事を変わるたび講座も増えた
でも、だからといって、所詮私の講座は一時置き場に過ぎないしねぇ
入金する尻から出していくから一向に貯まらないのだぁ

で、今回 とにかく一度全部解約してまとめてしまおうと思ったわけさ
それと、タンスの中に眠っていた超へそくり!
やっぱ今のご時世、家の中は危険すぎるよねぇ
いつ何が起きるかわからないし、いざとなっても、持ち出す事できないかもしれない
気が動転したら、枕しかつかんで逃げれないかもなぁ

だからやっぱ確実に残っている窓口がいい
で、郵便局に預けることにしたさ。元々通帳があるしね


娘のも全てまとめて預けることにした。 仕事行ってた時に家に出させていたお金も・・・
こっそり娘のお金もタンス貯金してたけど・・・かなりの金額になってたな
これはいつか独り立ちするときの為の資金さ!母の気持ち・・・

しかし・・・数年前に比べると、本当にマジ、金利が減ったよなぁ〜
全然桁が違う! 年々下がってるし・・・その癖税金は上がっている。
今じゃホントにただ預かってもらってるだけ。って感じだよね
それでもまぁ安心だと思うから・・・

でも、午前中大変だったぁ〜〜
私のヘソクリの作り方は、ピン札を見ると残しておきたくなって(^^;)
お!?ピンだぁ〜って、後で片づけよう♪とか思ってそのままどこかに挟んでおくから
ついつい、それを忘れてしまうことがあるんだよね
で、あちこち探すと・・・あら!こんな所に〜〜♪なんて具合に出てくる ハハハ

だから私のへそはピン札ばかり! 娘のは違うけどね
そして、私は自分のを探すつもりが、見つけてしまったのだ!ククク(≧m≦) 旦那のへそを!
うぉぉぉおおおお!!ってなもんで♪
でも、可哀想だったからそのまままた隠して置いたさ。
だって月々の小遣い1万円で・・・やっと貯めたんだろうしねぇ

私は取りあえず、急いで銀行に行ったさ 3時に終ってしまうし
で、そこで降ろしたお金も合わせて、いざ郵便局へ♪
札束だぁ〜〜ドキドキさぁ〜〜〜
千円札もあるけど札束だ!(o≧▽ )ノ彡☆バンバン ギャハハハ

娘の定期も増やして・・・洗剤とゴミ袋もらった(* ̄ー ̄)
横の電光掲示板には色んな金利が出てた。どれも0.がつく
1も無いんかい!ウリュ〜凸(-""-;) もっと増やさんか〜い!
と言っても仕方ないけどねぇ
久々に大金もってたから疲れてしまった(≧m≦)プ
窓口は混んでるし、待たされるし、 だけどなんとかスッキリだな

帰ってきて、旦那に・・・・私のへそも娘のもみんな貯金してんたぁ♪と話した
でも、旦那は大して無いと思ったのか、ほぉぉ〜〜〜ん( ̄。 ̄〃)と言っただけ

確かに少ないけどねぇ 何となく嬉しいもんさぁ♪
またチビチビヘソクリ貯め込むさぁ〜〜♪
No.33

2005年2月23日(水) 三学期初日
昨夜から嫌な予感がしてたんだよ〜〜
雷は激しいし、五月蠅いし、眠れないし

今日から娘も新学期。 朝から弁当用意して・・・
制服に着替える娘に「バスの時刻と場所はわかってるの?確かめておきねよ!」と言ったのに

やっとバタバタと出かけていき、ヤレヤレ・・・と思っていたら・・・
暫くして・・・
「おっかぁ〜〜〜!送ってくれ〜〜!!」と ハァ〜?!!!!( ̄□ ̄;;)
あれほど言ったのに やっぱり乗り遅れて帰ってきた!
いったい何してたの??まったくぅぅぅうぅ!

まぁ高校始めてのスクールバスだから、多分要領得なくてポカするだろうなぁとは思ったが
まさか こうも見事にやってくれるとはね
一気に私の脳内活動は ローからハイトップに!

なんせ 侮るなかれ冬の道!だから・・・気を引き締めないと走れない
しかもぉぉぉ 私の車のタイヤ、なんと8年越しなのだ(−−;)
先日も謎の空気抜け事件があったし、
何でもない道でも 色っぽく腰をふるし。
昨夜も旦那に、とにかく早く新しいタイヤを購入しなきゃ駄目やん!と話してたところなのだ
物いりだけど、大事な足だからねぇ
そんな車で出かけるのだから・・・否応なしに神経緊張しまくる

娘は早く早く〜〜!と言うし、
車の屋根の雪も落とさず出発したさ
そしたら案の定・・・帰りの道では程良く暖められた車の屋根から雪が落ちる落ちる
ゲェ!!!!( ̄□ ̄;;)前が見えないじゃん!!
頑張れワイパー!だな

帰宅しても一度トップまで上がったテンションは早々下がらない
ホントにもうぉぉぉお 車も人間も 急なエンジン切替はいけないんだぞーー!
ハァ〜〜〜〜 (_""_;)まったくぅ
帰りはちゃんと時間見て、早めに待機してろよ〜〜

No.32

2005年2月22日(火) 大きな心で
今日も何やら朝から大変だった
違う用事で電話したのに、電話口の彼女(弟の嫁さん)は何やら話したげで・・・
先日も長いメールを貰ったところだが・・・また違うこと?
時折、彼女には 頭チリチリさせられることもあるけど(^^;)

どうしたの?って聞くと・・・
一斉にしゃべり出したさ
「旦那が息子にPCを買うって言うんやぁ。しかも誓約書かして、でもまだ中学生やのに、そんなもん書かせても守れるはず無いこと約束させてどうするつもりなんかのぉ。ただでさえ今厳しいのに!借金すればいいとか、払いが終わるまで息子の小遣い無しにするとか、男の約束したとかどうとかって、考え方違うと思わんかぁ?」と
う〜〜〜ん(^^;)
はっきり言って、弟にも大口あんぐりの私だったが
中学生にはまだ早いよね、仮に買うにしても貯めてから買うのが本当だね。と私は言った
もう話せば解る年だと思うしね

でも、結局父と子は買ってきたらしい。
呆れて物もいえないわ!と私にまた長いメールをしてきた
でも・・・私はその返事にこう書いた


まぁ仕方ないよね 買ってしまった物はさ、
益代の(姪)車の時も私ら家族は 大口あんぐりだったけど(母子家庭で厳しい家計なのに姪の欲しがる新車を弟が世話して買うことを決めた)、まぁしっかり払って頑張っているようだし
ゆうちゃんも、案外しっかり約束守って考えていくかもしれないし
ここは信じて大きな心で見守るしかないね(^^)大丈夫だよ!
こんな事っていったら語弊があるかもしれないけど、私はこの頃、生きてるだけでも感謝!の気持ちが日増しに大きくなってきてるよ。
悲惨な事故や病気とかで、ある日突然命落とす人もいるし、それ思うと、今此処に家族が入るだけでも幸せだなぁって。
夜も、もし今突然地震とかで娘らが悲惨な目にあったら!とか考え出すと恐くて眠れなくなる
旦那も毎日無事帰宅してくることを当たり前に思わず毎日感謝しなきゃとかね。
だから、些細なことは気にせず、命に比べれば、みんな些細なことだよね
それは江美ちゃんが私より一番解っていると思うけど。
大丈夫さ、なんとかなるさ。おおらかに、ゆうちゃんにもPC良かったねぇって♪弟にも息子との約束の中でしたことやし、まぁしゃぁないかって気持ちで。これからも色々あるだろうけど、叱るときは叱って、注意はすれど?
気持ちは大きく・・・自分が笑顔でないと人生楽しくないよね♪ガンバです!
またいくらでも愚痴聞かせてくれていいからね(^^)

と・・・
私の考え間違ってるかな?
だって、確かに考え無しな行動に思えるけど・・・
父子で考えて決めて、行動したことだしね
ならば母親は、それを大きな心で受け止めて見守るしかないじゃん。て

だけど、最近本当に夜になると特に、考えてしまうのは・・・
今、こうして家族が何事もなく生きて生活している事って幸せだなぁって
もし、今、大災害でも起きて、突然どうにかなったら・・・
そう考えるだけで恐くて眠れなくなる。横に眠る旦那にしがみつきたくなる
ずっとずっとそばに居てね!無事に居てね!って
朝、行ってきますと出かけて、ただいま〜と帰ってきてくれる、それだけで幸せなんだって

多少お金が無かろうが、貧乏だろうが、元気でいれば何とかなるさ
少しのことで喧嘩したり、いがみ合ったり、不機嫌な気持ちでいるなんて、
すごい贅沢な時間を過ごしているんだって思うから
この気持ちは一番よく解ると思う。彼女も弟も・・・
愛娘をなくした気持ちは私なんかよりずっとずっと辛い思いだろうから

だからこそ、今ある幸せを噛みしめて欲しい
命に比べれば、どんなことも些細なことに思えるよね
元気で居ることが何よりも大切だと思うし、なんとかなるもんさ!

笑顔でいることが自分の人生を楽しく生きる方法だと、私は思う。
笑顔になれる人生を、見つけていって欲しい
だからってわけではないが・・・

今日、ずっと貯めていたタンスへそくりを実家の嫁さんに、何かの足しにしてねっと渡してきた
なんせ2年続きの葬儀で かなり厳しい状態らしいし
第一私の親だしね
いつかまた両親を旅行に連れて行ってあげようと思ってたし
その旅行は空の旅になってしまったけど

彼女にメッセージ添えて、弟に話す話さないは彼女に任せて渡してきた。
なんせ長男だけど末っ子の弟はどこか甘えん坊で?
お金に対しても考えてるのかどうかもわからない所もあるし(^^;)
ここはしっかりと嫁さんに任した方がいいかも

メッセ読んで、仏壇の前で泣いてしまったぁと言ってた
ただ、励ましの言葉を書いただけなんだけどね
彼女も辛い2年間だったよね。泣いてる暇も無いくらい・・・
感謝してるよ
だから多少の無理も無理と思わないから・・・思えないから
彼女の性格も全部ひっくるめて 私は私なりに見守っていくさぁ



No.31

2005年2月22日(火)
虹・・・・

母が亡くなる前の日・・・
それはみごとに虹が出たと言う。
義妹と姉がそれを見ていた

その虹を見て、義妹は 「きっと義母さんは自分の人生に悔いは無いと思ってるんじゃないかな」 と言った
同時に、自分も精一杯のことしてきたと思うから、悔いは無いよ と

そして、母は次の日無言の帰宅をして、
二晩自分の布団で寝かせてあげた。
その二日目の日、私は僅かな日差しを見つけて 虹を探しに車を走らせた
でも、虹はどこにも現れてくれなかった
この冬の空・・・そう簡単に虹は出ないよね

それからまた二日後、朝から凄い雨で、母を天に送った時も霙まじりの寒い日だった
雨の中、小さくなった母と一緒に帰る道・・・
今度は父親と弟と、車の運転をしていた私の娘が、
それはそれはまた見事な虹を見たと言う。
しかも、その虹の先が、丁度実家の・・・自分の家あたりだったと。
一瞬の晴れ間が 母の帰りを導くように、不思議な感じだった と

私はと言えば・・・
そのどちらも見ていない。
いづれも私は虹とは関係ない所に居たから・・・

父親達は、その虹を見て、母がやっと楽になれて空に上がれたって思ったと。
心がほんのり救われたようだ、と

私はまだそんな虹に出会えていない  私だけ
私はまだ見せては貰えないの?

通夜の日、遠くから駆けつけてくれた友人に・・・
「よく頑張ってたよね、悔いはないよね?」と私に言ってくれたけど
私はすぐに頷くことが出来なかった。
そりゃ精一杯してきたつもりだよ
でも、
最後の最後まで、私は母にとっては「嘘つき」だったから

義妹は最後に母の笑顔を見せて貰っている
でも、私は最後の母の言葉らしい言葉が 「嘘つきやぁ」だった

私は母に我慢ばかりさせていたよね
嫌な治療も、元気になれるからね、家に帰れるようになるからね
お風呂もいれてあげるからね と
そう言って、結局はそのどれも叶えてあげることが出来ず

母は話すことも出来なくなって、動くことも出来なくなって
私の声は届かなくなってしまった
私を見る目も うつろで 何を思っているのかも確かめる事も出来ず

そして私の手のひらの中で、母は目を閉じた
何も聞くことが出来ぬまま・・・

私も虹が いつかは見れますか?
見せてくれますか?

私は・・・良い娘だったと・・・
思ってくれますか? お母さん・・・
No.30

2005年2月21日(月) 雨・・・
夜 一人になりたくて また車の中に逃げ込んだ
酒飲んでたし 雨だし 夜だし ぶらぶら出来るはずもないから車の中が一番いいよね
だって私は頑固で見えっ張りで強がりで しっかり者だから(≧m≦)ぷっ
悪巧みはできないさ〜
って言うより単なる小心者かな?アハハ

でも そんな私でも回りを気にしないでいい場所へ逃げたくなる時があるから
家族にすら涙なんか見せたくない強情っぱりだし
それに 自分を見つめるにはやはり一人がいい

心に余裕がなくなってくると 普段は気にしない事も気になって 心の中がぐちゃぐちゃになる
自分の嫌いな塊になる

だからそんな自分を吐き出しに行く 誰も居ない所に
それでも やっちまうんだよな
甘えてしまいたくなる
自分をさらけ出せる相手に

で 言ってしまってから後悔する
ダメやん!自分!!って

で 頭冷やすために一人閉じこもって色々独り言いったり 鼻歌うたって思い切り浸ったり アハハ☆
そのうち 段々そうして一人で居ることが馬鹿らしくなってきて
まぁ いいっか〜って
また頑張る気になってくる
今もそう

雨の中 動けない車の中で約90分?
懐メロ鼻歌さ〜
やけくそでメール書いては送らずに削除して
文章にしては削除して…

結局まぁいいか って家の中へ…
もういつもの私さ
風呂入ってまた鼻歌まじりに もう布団の中。
たださすがにパソコンにはむかえなくて携帯だけでピコピコしてる
やっぱ ちょいお疲れ?
こんな時は寝るに限る!
皮肉や嫌みになる前に いつものおバカになるために
回りはみんな優しいよね
こんな私を きっと見てみないふりしてくれてるんだ
普通に普通に 変に気を使われてしまうと逆にもう何も動けなくなる
喋れなくなる
なんせあまのじゃくだからね(≧m≦)ぷっ
頑張るさ!頑張れるさ

そうやって自分を支えて強く図太くなって来たんだから…アハハ(*⌒▽⌒*)

ファイト〜〜☆
No.29

2005年2月20日(日) 悲しみ
私の義父は数年前 病気で亡くなった
筋萎縮性側索硬化症(ALS)と言う難病だ
徐々に体の自由が利かなくなり動けなくなる
やがて呼吸器系も麻痺し 自発呼吸も出来なくなる

そして患者は24時間看護を余儀なくされる
一人では何も出来ないから
でも 意識や考える力は残っているから辛いよね
動けない喋れない食べられない でも意識はある
その辛さ苦しさは計り知れないだろう

義父はこの病気になり 動けなくなったとき 辛い選択をした
呼吸器をつけるかどうか?
自発呼吸ができなくなった時にどうするか?と
病気の完治は有り得ない
ただ時を待つだけの生活だ
義父は それの処置を拒んだ 何も解らない状態になってまで生きていたくない と
そして最後の最後まで 何も付けず 命を全うした
それは短いようで長い生活だったよね
どんなに歯痒かったか
そしてそれを支えて介護してきた義母 辛かっただろうね
私はそんな二人を助けることもなく ただ遠目で見ていただけ
福祉がいくら進歩してきたとはいえ 1日中の介護は並大抵じゃない
それは今私がその身になって改めて感じる事
精神的葛藤が毎日あっただろう 悲しかったよね
でも私は気の利いた言葉一つ言えずに終わってしまった
旦那はどうなんだろう
私は何度旦那に言ったかしれない
「まめに顔出して会いに行ったげてよ」と
私は家を出た身だから…
でも 寡黙にうなづくだけであまり行ってなかったように思う
やはり見るのが辛かったのかな 自分の親を思わないはずないよね
元気だったころの面影が日増しに無くなっていく様を見たく無かったのかも

人間、生きていれば必ず人の生と死に遭遇する
それがどんな形であれ、感じる物はみな同じだろう

旦那も、そして私の回りに居る、そんな悲しい経験者達も
今の私と同じような思いを乗り越えてきている
いや・・・まだ引きずっているかもしれない

辛いよね。

旦那は私に涙を見せたことがない。
一度だけ?過去にあったけど、それだけ。
お父さんを亡くしたときも、気丈に振る舞っていた
悲痛な顔は隠せないけど、泣いていた顔を私は知らない。
元々感情をあまり表に出さない人だからかな?

だけど、堪えていかなきゃいけない時もある
誰しもが一度は経験するだろう悲しみを越えて・・・
自分だけが辛いのではない

そしてまた笑顔で生きていくのさ!


No.28

2005年2月19日(土) 結婚生活5 強い意志。
娘と実家に帰り、文字通り出戻り娘なのだが、そうそう親に甘えてるわけにはいかない



とにかく仕事は行かなきゃいけないし、子供を預かってくれる所を探さねば!

親に見て貰うわけにはいかないからね



すぐ思いついたのが、以前勤めていた保育所。

ここの先生は顔なじみだし、それに何より、姉の子供も此処にお世話になっていた

今まで、ずっと家で過ごしてきた娘だから・・・

きっと慣れるまでは大泣きだね  辛いけど・・・これも貴方の試練だよ

強く育って欲しい!



幸いにも子供の受入はなんとかOKが出た。

すでに11月、こんな中途で入れて貰えるなんて運がいいね



それからが朝はまさに戦争だった

8時までに会社に入らねばいけないし、保育所は早番でも7時半以降でないと来ない

娘に食事をさせ、自分の行く仕度をし、弁当もってカバン持たせて

そして、保育所の玄関先に泣く子を押しつけるように預けて会社に走る



いつまでも鳴き声が耳に離れなかったよ〜

自分も保母をしていたから いつか子供は順応して元気に通うようになると解っていても

それでも最初は根負けしそうになるよね



でも、お迎えは姉が居たから安心だった。

仕事が長引いても姉が娘を一緒に連れて帰ってくれたから



旦那は と言えば・・・

あの頃はまだ携帯も無くて、私に話がしたくても

かなり勇気をもってしないとうちには電話なんて出来ないよね

その旦那から数回 帰ってこいやぁ と電話があったが・・・

私は全く聞く耳を持たなかった。 答は一つ  ON!!


旦那には 言って悪いけど、かなり幻滅していた

情が完全に無くなったか?と言えば、そりゃまだ完全に嫌いになったわけじゃないけど

でも・・・

もうあの家には戻らない。
No.51

2005年2月19日(土) 結婚生活4 逃げた訳じゃない
私が此処に嫁いで 丸4年が経った。

頼りない旦那だけど、それでもこの家では唯一私の逃げ場だった



でも、私だって我慢に我慢を重ね まだこれ以上我慢し続ける自信はなかった


この家から出ていきたい!

でも、自分から出ていくなんて言いたくない!



たとえちっぽけでも、私だって意地がある。絶対負けたくない!

どんなに理不尽な思いをしても、嫁いできたときに言われたから・・・



「このうちにはこのうちのやり方がある。後から入ってきたもんがそれに合わせるもんや。」と

それが出来ないなら嫁でない。と言われた

私は はい。とはっきり答えた

私は昔から意地っ張りで、父親譲りの頑固もんだからね



自分の事なら 我慢も出来た。



でも・・・

季節は夏の終わり・・・稲刈りも済んで、

私は自分なりに精一杯してきてたつもりなんだけど・・・

どうしても体の調子がいまいち良くなかった。



でも、仕事は休まず行っていた。そこは私が家のことを忘れていられる場所でもあったから

だけど、ひとたび家に入れば、とたんに重い空気が私を包んで

娘の笑顔だけが・・・私の安らぎの場だったきがする

もちろん旦那のことは嫌いとは言わないけど、

些細なことですぐに喧嘩になった  



そんなある日・・・

また私を激しい頭痛が襲い、寝込んでしまった

当然嫁の勤めも満足に出来ず、でも、どうしようもなかった

すると、義父が私に、

「おい、いっぺん親を呼べ!話がある。」と

え!?親を? なぜ??

私の体はガクガクと震えて 胸が苦しいほど波打った

そんな・・・呼べないよ! 

来たら絶対また責め立てるんだ! そんなこと出来るわけがない



ところが・・・義母は電話で父を呼びつけてしまった



6畳の狭い部屋の中・・・

私と父は、義父母の前に座らされた  その横には確か義弟も旦那も居たような

はっきり言って、あまりその時の事を よく思い出せない



まるで、どこか違う世界で話してるような・・・

気持ちもかなり動揺してて、話してる内容も よく覚えていない

ただ・・・

私の父が、酷く義父に責められていたことは事実。

悲しくて、悔しくて・・・

あんなに家では頑固で気が強くて、大声の父が、じっと無言で耐えていた



でも・・・

私の悪いことを言われて父が責められてる時はまだ我慢出来たけど

その矛先が父に向けられた



「あんたは親としてどういう躾してきたんやの。親として恥ずかしくないんけの」と

他にも常識がないとか、挨拶(中元とか)にも来んとか、おおよそ考えられない様な事を父に言ったのだ



それでも父は 私のために拳を握りしめ、唇を噛みしめて耐えていた

だけど、私はもう〜我慢出来なかった!



そんなこと貴方が言えるのか?! 人として言えるのか?!

私の父親を悪く言わないで!父は悪くない!

私は 火がついたように義父に言い返した。



「お義父さん!お義父さんは私の父を非常識な親呼ばわりしますが、じゃぁお義父さんは、そんなに立派な人間なんですか!?」と



義父は 私の言葉に驚き、何かを言ったようだが・・・私の言葉は止まらなかった

「私の父は どんなに自分が辛くてもいつも私らのことを大事に考えてくれてました」

「私の父が常識ないと言うなら、貴方は常識あるんですか?嫁入り道具は買い換えられるし」

「常識ってなにが常識なんですか?うちは貧乏だけど、精一杯してくれてるのに」

「心のこもった物を 何も考えず、お雛様だって交換してしまうことが常識ある人なんですか?!」



私は一気にはじけるようにぶつけてしまった。

そしてその横で・・・愕然としてる父にやっと気付いた



あぁぁ・・・言ってしまった!!



それまで、かたくなに口をつむり、我慢していた父は、突如立ち上がり!

「それは本当か!初めて聞いた!も〜〜〜〜いい!!話す事はない!!帰る!」と

それはもうすごい剣幕で・・・

私は自分の言ってしまったことの重大さに気付き、オロオロと父を後を付いて外へ出た

父は、車に乗り込むと、勢いよく砂利を飛ばしながら出ていった。



後に残った私・・・・ 

部屋に残った義父母・・・

そしてずっと黙って座っていた旦那とその兄弟・・・



体の中から全ての力が抜けていくような感じだった

その後の記憶が 無い



あの場をその後どうしたのか・・・食事はどうしたのか 

娘はその時 どうしていたのか・・・ 本当に思い出せない



ただ・・・その数日後だったか、

私は義父に言われた。

「もう一度親を連れてこい!連れてきて謝るまで帰ってくるな!!出てけ!」と

10月頃のことだった。



次の日、仕事から帰って、本当に少ない荷物を抱え

出かけていた義母の所に娘を迎えに行き そのまま実家へ帰っていった。

娘・・・2才8ヶ月だった



実家の玄関に入る。

私は明るく ただいま〜〜!と言った。

家の中から出てきた母は、少し驚き、でも、何も聞かず、「おかえりぃ」と言った



母の顔を見て    涙がどっと溢れた・・・



この時私は心に決めた

もう あのうちには帰らない!

だって、帰って来るな!って言われたんだもん!!

私は逃げてきたんじゃない

出て行けと言われたから出てきたんだ!

私は何も 謝るような事はしていない!



そう! 私は 逃げたわけじゃないんだ!!

やっと・・・やっと! 私はあの家を出てこられたんだ!
No.50

2005年2月19日(土) 結婚生活3 反発
自分があの頃、何を楽しみに毎日を送っていたのか・・・



それは子供以外に何も無かった。

自分の娘だけが 私の生き甲斐だった。

この子の為なら、何者にも向かっていける・・・



娘が母乳を離れ、ステップミルクに成った頃の事だった

母乳と違い、誰にでもミルクを飲ませてあげることができる状態の時



居間に、娘の飲み残した哺乳瓶のミルクが置いてあった。

私は当然それを 台所に持っていき流そうとした。



すると!義父は すごい剣幕で

「なんて勿体ない事するんじゃ!!残りも飲まさんかい!」と私に叱りとばした



私は一瞬 え?! と思った。

新しいミルクならいざ知らず? いつ作っていつの残りなのかもわからないのに?

もし、これを飲ませてお腹でも壊したらどうするの??



どんなに自分の小遣いが減ろうとも、子供にはいつも美味しい物を

新しい物を与えてあげたい!

それは決して勿体ないなんて思わない!



この時、私は初めて、この家に嫁いできて初めて、義父に態度で反発した

今まで口答えなどしたことがなかったけど、出来なかったけど

でも、私の大切な娘の事だから



私は断固 言い返した。

「どうして勿体ないんですか?これがもし傷んでいたらどうします?冷蔵庫にも入っていなかったのに」

義父は一瞬ひるんだ

でも、まさか私が口答えした? と そっちの方が頭に来たのだろう

私は決して間違ったことを言ってはいないのに義父は自分の言い分を変えようとしなかった



しまいには 激しい言い合い・・・

でも、絶対この人の前では泣くまい!と歯を食いしばって言い返していた。

「絶対 残りミルクはこの子に飲ませないでください!」と



私は我が子を抱きしめて、自分の部屋に戻り・・・

娘を抱きかかえながら 声を殺して泣いた



でも、孫は可愛いよね

自分だって、それが危ないかもしれないとは思ったはず。

その証拠に、その数日後・・・



義母から言われた

「あんた、ミルクは残っても冷蔵庫に入れておけば大丈夫なんやとの。ぬくめ直して飲ませればいいんやとの。保健所に聞いてみたで。」と

あれからわざわざ聞きにいったの?

義父はどうしても自分の言い分を立証させたかったんだね

でも、やっぱりすぐに冷蔵庫に入れておくようにと言われたんだろうね



だけど、それでも飲ませたいと?勿体ないから



でも、私はこっそり冷蔵庫に入っていれば流していたさ

譲れない私の抵抗だった。



それからまた月日は流れ・・・

娘も2才になり、桃の節句が来て、お雛様を出した。

去年も出したが あまり覚えていなかった いつのまにか座敷に飾られていたから



よく見れば、立派な八段飾り  当然自分の親が買ってくれた物だと信じていた

ところが・・・

誰に聞いたのか 記憶が飛んでいるけど

なんと、そのお雛様は 私の両親が 私の娘にお祝いとして贈ってくれた品物では無い と

でも、確かに此処に娘と帰ってきたときは親からの雛人形だった。

その年は3月の終わりだったから出さずにいたが

私の知らないうちに、またもや姑舅達は そのお雛様をそのまま買い換えてしまったのだ



それを聞いたとき、私は我の耳を疑った

まさか! なぜ? だって、確かにうちは貧乏だけど、でも、ちゃんと八段飾りだったはず?

私は両親とベビーセンターへ行って、親と一緒に選んで来た。

そりゃぁ大体な形を選んだだけで、後は両親に任せたけど、

でも、八段だった。  精一杯してくれたんだよ?



それを、事もなげに義父母は さらに大きい物と交換してきていたのだ



そんなにこの家は立派なの? そんなに私の持ってくる物は貧相なの?

どんな権利があって そこまで人の心を踏みにじれるの?



それを聞いた私は・・・決してお雛様は悪くないのに・・・

その雛人形に対しての愛情が薄れていくのを覚えた



悲しかった・・・悔しかった・・・

でも、こんな事、絶対両親には知られてはいけないと思った。

だから私は自分一人の胸に納め、誰にも口外せず、

このままこのうちだけの秘密にしておくつもりでいた  そう、あの日までは・・・

No.49

2005年2月19日(土) 結婚生活2 限界
そんな中で どうしても困ることが出てきた。

それは自分に与えられる月々のお小遣い。

私も旦那も、給料はすべて家に出し、その中から5000円だけ小遣いとして貰っていた。



でも・・・

たったの5000円だよ?そんな額でまかなえるはずがない!

仕事に出れば、化粧品の一つも欲しい。

子供の為にも 何か買ってきてあげたいと思う。



だから私は義父に 月の小遣いを上げて貰うよう頼んでみた。

すると、帰ってきた答が・・・

「5000もやってるのに まだ足らんのか?!何にそんに使うことあるんや!」 だった

まるで私が無駄遣いするかのように



わからないのだ・・・・男親には女心が解ってない!

ましてや自分の子供は男ばかりで、娘の事も何一つ解らないのだ

化粧品にしろ、何でそんなもんが居るんやぁと 値段も知らないし・・・



でも、なぜ?私ら夫婦が稼いだお金をなんでほとんど全て家に出さねばいけないの?

そっちの方が私は理解出来ない。

まだ弟が下に居て、これからいくらでも金が要るんや!と 義母は言う。

でも、それは貴方達親が工面するべき事で、私達は関係ない!

散々私の親には、嫁入り道具は少ないとか、安物だとか 好き勝手言っておきながら



あげくには、私は上の姉より嫁入り仕度が少ないんでないか?あんたは姉ちゃんより可愛がられてないんやなぁ とまで言われた



悔しかった・・・ なんでそこまで言われなくちゃいけないのか・・・

私は親からの気持ちは痛いほど解っているし、

出来る限りの事をしてくれてると解っているから・・・



だからこの言葉は私には許せなかった。



その私も娘を持ち、親になった。

私のこれからの義務は この娘を守ること! 幸せに育てる事。

だから負けていなかったさ。

なんとか値上げを許して貰い 1万円にして貰った

だって、子供の物は自分で買いたかったし、祝い事もしてあげたい



娘の百日の祝の日 お食い初めの日

この家の者は全然そんなこと眼中になかった

期待はしてなかったけどね。

私はせめてささやかでも お祝いしてあげたくて、

小さい揃いの茶碗に、尾頭付きと、ご飯と、小さい綺麗な石を添えて・・・



まだお座りも出来ない娘に、母から貰った一つ身の晴れ着を羽織らせて

親子3人だけでお祝いをして写真を撮った。

娘は笑って嬉しそうだった。



でも・・・切ないねぇ 寂しすぎるよね   まるで隠れるみたいなお祝いだね



こんな家だから 当然お誕生日のお祝いもしない。

聞けば誰の誕生日会もしたことが無いと言う。

なんて寂しい家なんだろう

いくらお金が沢山ある家でも、心が貧しければそれは幸せといえるのだろうか?



いや・・・それが当たり前な日常と思っているから 何とも感じないんだね



私の親は、どんなに貧しくても 精一杯の気持ちでお祝いしてくれた。

母の手作りの数々は 私の自慢の品だった

頑固だけど、父の大声で笑う姿が好きだった。

でも・・・

この嫁いだ家は? 笑いはどこにあるの? テレビを見てる時だけ?

家族の会話の中で 私は声を立てて笑っている風景を見たことがない。

当然私も、笑うどころか、必要以外に話したことが無い。

話せないのだ。心が萎縮してしまって・・・

ご飯の おかわりですら出来ないのだから



こんな中で、正常な精神で居られる方が不思議だよね

いつしか私の心は どんどん壊れていった

自分でも あの頃 自分がどれほど変だったか・・・気が付いていなかっただろうけど

多分、私は おかしくなっていたのだと思う。



毎晩の様に 私は一人、電気を消した部屋で 自分の実家の方を見ながら泣いていた

声を立てず・・・ただ涙を溢れさせながら・・・

でも、私はその家に帰ることは出来ない。

だって、私は両親に、幸せになりますから と誓って結婚を許してもらったから



だからどんなに辛くても、親に泣き言など言えるはずがない

何もかも自分一人の胸に詰め込んで詰め込んで、それを涙にして流していた



こんな事もあった。

母親が病気になり、寝込んでいると聞いて、私は仕事帰りに一度だけ立ち寄った。

すると、どこから聞いたのか?

「あんた、実家に寄ってるんか?毎日寄り道してるんか!」とすごい剣幕で義母に言われた。



私は母親の具合が悪いから様子を見に行ったのだと、話した。すると

「なんで あんたが行かなあかんのや!いくら帰り道でも あんたはもうこんのちの嫁なんやぞ!」と



じゃぁなに?私は親の病気のときですら見舞いにも、ましてや看病などもってのほかだと?

なぜそこまで言われなきゃいけないの?

私は毎日寄り道などしてないのに・・・ まっすぐいつも帰って来てるよ?

それが条件で、今の仕事にも変わらされたんだよね?

大好きな保母の仕事を辞めさせられて・・・ 定時に帰れる仕事に変わらされた。



こんなに頑張っているのに・・・  情けなかった



悲しくて、辛くて、悔しくて・・・ 益々変になりそうだった。

その変化は 体にも現れだした。

朝・・・どんなに置きようと思っても体が動かない。

頭痛が酷くて、階下に降りる事も恐くて・・・度々朝の仕度を義母に変わってくれるよう

私は横で眠る旦那に頼んで貰った。



そして言われたことが・・・

「うちは、元気やと言うさけ嫁に貰ったのに、ぜ〜〜んぜんあかん!」



しかもそれを、私の親に電話で話したらしい。 寝込んでばかりで役にもたたん と

あぁぁ 私は親を泣かせてしまった・・・

でも、益々私は義父母に対して 心を開けなくなって 

休みの日は隠れるように部屋で伏せるようになってしまった



親の居る階下に降りるのが恐かった。

顔を合わすのが恐かった。

水を飲みに降りることも出来ず、 トイレに行くことも出来なかった。



そして・・・私は考えられない行動をとってしまった



その日も体が怠くて、一人部屋で布勢っていたが・・・どうしてもトイレに行きたくなった。

でも、下に降りればバッタリ顔を合わすかもしれない

畑に出ていればいいけど、居るかもしれない。

そこで私は・・・なんと、子供用に買ってある紙おむつにおしっこをしてしまったのだ



常識では考えられない



私の心は ここまで追い込まれていたのだ

限界だった・・・

No.48

2005年2月19日(土) 結婚生活1
長女が生まれて・・・私は幸せの絶頂にいた。

これから親子3人になる。

可愛い娘を抱いて、夢を膨らませていた。



初産ということもあり、生まれてから一ヶ月は実家で体を休め

一月後の3月終わりに私は沢山の祝い物を持って嫁ぎ先に帰っていった



そう、2月生まれだから 女の子は初節句になる

両親は精一杯の事を私ら親子にしてくれた



雛飾りに 子供のタンス、ベビーベッド、乳母車やメリーゴーランド・・・

昨年姉が初孫を生んだところなのに、大変だったろうね



そして私はと言えば・・・すでに会社は出産と同時に退職していた。

でも、まさか働かないわけにはいかない。

当然、家の中に主婦は二人もいらないという考えだし

私自身1日中姑と一緒に過ごすのは苦痛でしかない



でも・・・・それはすなわち・・・・我が子のそばから離れると言うこと

わずか二ヶ月で・・・私は子供を姑に預け、働きに出ることになった



その生活は大変なものだった。

当時、その会社はまだ育児に対して設備も考えも進んでいなかった

当然、授乳室など有るはずもなく、冷凍庫すらない。

仕事をしながら、おっぱいがりんりんに張ってくる辛さを我慢しつつ昼休みを待つ



たった1時間の休憩時間に、少し離れた友達の家へ車で飛んでいき

そこで堅くなったおっぱいを絞って、冷凍庫に入れさせた貰った

1日 たったの1回だけの搾乳・・・

それを会社退社後、クーラーバックに納め、家に帰る



でも、家に着いたとしても すぐに我が子を抱けるかと思えばそうではなかった

義母に抱かれた我が子を横から見ながら 私は台所に立つ

本当はいますぐ抱いてあげたいのに・・・



夕飯の仕度は私の役目だから、家族6人分の食事を作らねばいけない

夕飯が済んでも私は後かたづけがある。

まだ抱くことができない。

お風呂の時間になっても私は我が子をこの家で入れたことがない。

すべて姑舅二人が入れてたから・・・



そしてようやく私の元に我が子が返ってくる



『おっぱいあげるね、たくさん飲んでね・・・』と

でも、当然自分の部屋に籠もってあげることになる。

なんせ結婚した最初の日に 姑に言われたから

「うちにはまだ若いもんが(旦那の弟)居るから、あまりひっついて座らんときねや」と

まして、胸を出すなんて、家族の前で出来るはずもないよね



私もその方が気が楽だし・・・

それにやっとの親子の時間だもん。今しか無いのだから・・・

朝になれば、また仕事が待っている。

おっぱいあげるために、いつもよりもっと早く起きなければ間に合わない



お弁当5個に朝食・・・洗濯・・・

そして 後ろ髪引かれる思いでの出勤。

こんな生活で、いつまでも豊富に母乳が出るはずもない



それでも私は我が子のために頑張った

終いには、乳首から出血して白いはずの母乳がいちごミルク色になる

だけど絞るのをやめなかった。

家に帰って、我が子を抱けば、一気にまた胸が張ってくる気がするから



6ヶ月頑張った。

姑に「うちの嫁は乳も満足にでないんやぁ」と言われたくなくて・・・

あっという間に半年が過ぎた・・・辛い毎日だった

子供が産まれれば・・・そうすれば笑顔のこぼれる毎日になると思っていたのに

なんど、おっぱいを吸わせながら泣いたことか

泣いちゃダメだ!泣いたら おっぱいが美味しくなくなるよ〜 と

自分で自分を励まし叱咤しながら・・・

唯一、この時間だけが私の幸せな時間だった



この子が居るから・・・この子の為に 私は頑張らなきゃ!と思った
No.47

2005年2月18日(金) 新婚生活 2
私の新婚時代は怒濤のごとく・・・だったけど、
それでも、もし私に子供が出来たら・・・そしたら少しは賑やかになるし、和やかになるかなぁ なんて淡い期待もしてたんだよね
元々早く子供が欲しかった私は毎年の健康診断に出かけて・・・そこで言われた事は
「赤ちゃんを作るのは今は無理ですね」・・・・・・・がーーん!だった

昔から私は極度の貧血で、この時もかなり酷くて、通院して治さないと子供は絶対無理だと言われた。 それからと言うもの必死だったなぁ
まるで薬でもしてるのでは?みたいな腕をしていた。 ほとんど毎日造血注射に通ったから

でも、おかげでようやくOKが貰えて嬉しかったぁ
それから私の奮闘が始まった。 毎日目覚めと同時に基礎体温はかり・・・・
高温期が続いて・・・このまま下がらないで〜〜!という願いも虚しく、何度落ち込んだことか

色んな本も見て、どんな体位が出来やすいとか、いつが出来やすいとか、
でもなかなか私の思いは叶えて貰えなかった。
それでも数ヶ月の後 ようやく念願の妊娠がわかった時は嬉しかったよ〜〜〜
これで家族との間も穏やかな空気になるかなぁ〜なんて期待もかすめていた。
でも、それは甘い幻想だったさ・・・・

姑に妊娠を伝えて、その第一声が・・・
「子供出来たからっておめでとうなんては言わんでの、親子の間でそんな事は言わん」と
そうなの?でも、だからってそんな風に言わなくても・・・
せめて、良かったね。ってそう言ってくれれば嬉しかったのに・・・

そして子供が出来てからの私の生活も、なんら変わりなく・・・どんなに辛くても家事はしなくてはいけないし、当然田植えも・・・
その結果、何度も出血を繰り返した。
その度 姑から「ねんね出来ても出血なんか病気でねんや、私なんかしょっちゅうやった」と
辛かった・・・恐かった・・・もしこの子に何かあったらどうしよう・・・・って

そして何度目かの出血の時、とうとうDrから安静命令が出た。
このままでは流産してしまいますよ!と
この時、初めて私は両親に事情を話した。親はいますぐ帰って来い!と  そして、嫁ぎ先まで頭を下げにきてくれた。 どうか暫く実家に帰らせてやって欲しい と

私はようやく安心して療養することができた。

それから2ヶ月後、お腹も落ち着いて また帰ることに、
当然だが私への態度がそれで変わるはずもなく、また以前の暮らしに戻った。
それでも私のお腹の中には赤ちゃんが居る!その事が大きく私を支えてくれた。
守ってあげるからね!と
当時私は仕事にも行っていた。 布団や婚礼道具の卸問屋だ
みんなはいい人で、私を気遣ってくれたし、お弁当を囲む時間もすごく楽しかった。
大きくなるお腹を抱えながらも、店番業務に専念して、家にいるより数段気が楽だった。

でも、家に帰れば神経の休まる時は無く、眠るときだけが唯一の私の時間だった。
そんな中、また田んぼの季節。
もちろん私も稲刈りに出なくてはいけなかった。お腹が張ってすごく辛くて、
腰も痛くて・・・・しかも慣れない作業。
そんな中でも私は頑張ってたのに、「稲刈る格好がなってねぇ!ほんな恥ずかしい仕方してたら笑われてまう!」と姑にきつく言われた。
そしてその夜私はお腹が痛くて、次の日また病院へ行く羽目になってしまった

Drからまたも安静命令。次は切迫早産になるよ!と
それでもなんとか持ちこたえて、妊娠7ヶ月目・・・またも出血。
その時姑に言われた言葉。
「私も7ヶ月であんちゃん(旦那)生んだけど、すごい軽かった。出血なんかなんでもねぇ」と
でも、その育児は大変だったらしい。お乳を吸えなくて、ガーゼで飲ませたとか、ずっと体が弱かったとか・・・・
でも、それでも大丈夫だと私に言う。 そんなことが有るはず無い!
私は、今度は自分から姑舅二人に頭を下げた。 どうか生まれるまで帰らせてください と。旦那にも相談した。その方がいいだろう と

それから娘が生まれる2月まで、私は実家に居ることに・・・
もちろん生まれてからの1ヶ月も。 娘の誕生は大きな喜びとなって私の中に刻まれた。

ありがとう!無事に生まれてきてくれて・・・
でも、実際危なかったらしい。度重なる点滴や薬のせいで、綺麗なはずの羊水はドロドロになってたらしい。
本当に、頑張ってくれたんだねぇ 貴方の産声を聞けて良かった!
貴方をこの胸に抱くことが出来て良かった!それだけで もう十分の幸せを貰うことが出来た。

そして・・・私ら夫婦は、この娘に「幸恵」と名付けた

この子の人生が、どうか、沢山の幸せに恵まれますように・・・ と
No.27

2005年2月18日(金) 新婚生活 1
私と旦那の結婚は、そりゃもう話し合いの場から大変だった

なんせうちは貧乏だし、かたや旦那側は田舎の、しかも長男で
披露宴は自宅で!なんて言うような昔風な家だった
そんなことになったら、結婚式の後 すぐ新婚旅行♪
なぁんて甘いことは言ってられない。
なんせ在所中招待する勢いだから その接待は大変なものになる。

そんな辛い思いを初日早々させたくないと思った両親は、頑固式場での披露宴を押してくれたよ。
お金はかかるけど・・・せめて少しでも楽しい思い出を作ってあげたいって思ってくれたんだね

何回も仲人交えて話し合いが行われて、ようやく決まった式場は一番大きい会場で、しかもギュウギュウ状態
お色直しも3回もして、盛大なものだった

嫁入り道具も大変だった。
父は自分の退職金を前借りして、大トラック3台+饅頭トラック2台+自家用車・バイク

もちろんトラックの中身は桐タンス4本。鏡台。電化製品はもちろんのこと、ほうき1本までも持っていった。
それを近所の人が見に来るのさ タンスの着物に至るまで・・・全て

ものすごく親は頑張って私の為に揃えてくれたのに・・・
なんと持っていった冷蔵庫や洗濯機が気に入らなかったとかで、もっと大きいのと知らない内に交換されていて、旅行から帰ってきてビックリした。
でも、私は親には内緒でグッと我慢したさ。
そんなこと知られたら、親はなんて思うだろう
それに、反対を押し切って幸せになるから!と結婚したのに・・・

でも、その新婚生活はとても甘い物じゃなかった。

当時嫁いだときは、まだ旦那の兄弟二人とも一緒に住んでいて、
まさに男所帯だった。
まず、朝は早から起床して、弁当5個 朝食はお鍋一杯作っても全部空になるくらい食べてしまう
洗濯も半端じゃない。仕事に行くまでにせっせと回して、冬なら干すしりからバリバリに凍ってしまって大変だった。
もちろん私の洗濯物は暗い勝手口の中。
年頃の息子が居るんだからね!と姑にいつも言われていた。

だから同じ部屋に居ても私と旦那は端と端。
一緒に並んでなど座らせてもらえない。
二人で自分達の部屋に行くことも寝る時間まで許してもらえなかった

お風呂だって一番最後に入り、風呂掃除もして、
休みの日だって買い物すら行かせてもらえず、家事全部私の仕事。
掃除だけでも半日かかりそうな広さだった。
しかも雑巾は川で洗うし、冬は冷たかったなぁ

こんな家で心が安まるはずもなく、ご飯だっておかわりすら出来なかった
言葉が出てこなかったから・・・
台所で一人後かたづけをしてる間、居間からはテレビの音が・・・
食器だって洗い場一杯あったからねぇ。なかなか終わらない。
米は毎日1升2合 それが空になる。
おかずの準備も慣れない台所で一人奮闘で、 一生懸命作ったおみそ汁にはケチつけられ、
だって、お豆腐入れたらグツグツ煮込まなきゃいけないって言うんだよ〜
味付けは極甘だし、肉料理は週に1回だけにしなさいと言われるし
おかずの買い出しのあとはレシートとお釣りをきちんと出さないといけなかった

お小遣いは一月5000円のみ、後の給料は全て姑に取られた。
まだ弟が二人もいてお金がかかるから!って
もちろん旦那も同じお小遣い。 でも、それが当たり前と旦那は思っていたみたいだね

5000円じゃ何も買えなかった。化粧品も嫁いだときの物をチビチビ使い
自分の使う物は自分で買うしかないから、もちろん生理用品も。

そう言えば、生理の時は嫌だったなぁ
今でこそ水洗だけど、昔はくみ取り式で、しかも畑に肥やしとして蒔いていたからすごく気を遣ったし、トイレの後も何回も回りを見回して出た
食べ物でも注意された
例えば、コーンを料理に使うと、消火されずにそのままツブツブが出てくるから、畑に蒔いたとき恥ずかしいって。
だからトウモロコシは使うなと言われた。

言い出したらきりがないけど、一番辛かったことは・・・
実家の母親が病気で倒れたとき、見舞いにもろくに行けなかった事。
私が毎日のように家に寄り道してるんだろうって言われて、
なんで行く必要があるんだって。
私は親から好かれていない子供だったんだろうってまで言われた
なぜなら嫁入り道具が少なかったからとか
お中元やお歳暮の品が安物だから・・・と

悔しかった

その場で大声で怒鳴りながら泣きたかった

でも、私が反発すればすぐに両親に電話がかかる。
風邪でもひこうものなら、うちは健康で元気な嫁さんが欲しかった!と言われ
どんどん私の心は萎縮して、必要以外に話しも出来ず、
姑舅二人の顔色ばかり気にして、実家の両親に迷惑がかからないことばかり考えていた

盆正月に帰っても泣き言一つ言えず、上手くやってるよ と笑って答えた

そんな私の辛さを旦那はあまりにも解ってくれようとしなかった
ていうか、そんな中で育った彼はそれが当たり前と思っていたから

私も若かったし、みんなこんな苦労してるのかなぁ と
これが当たり前なのかなぁとさえ思いこまされていた

ただ我慢して・・・我慢して・・・自分の居場所を探していた
泣くまい と思いながらも ふがいない旦那と喧嘩ばかりして
一人堪え泣きをしていた。

あの頃の生活で楽しかった事ってあったかなぁ
誕生日もクリスマスも何もしない家。
日曜は畑と田んぼは当たり前で、外出などありえないし
男兄弟に女一人だから 可愛がられるよ〜と言われたけど全く逆で
娘が居ないから娘の事が何もわからない舅。

何も出来ない嫁だと思われたくなくて、必死で頑張った
田んぼも初めて入ったし、作り笑いだけの生活だった

それでもいつかはこの生活ににも慣れて、穏やかにすごせる日がくるかなぁ
と、旦那も、私のこと解ってくれて、親にも意見出来る人になってくれるかなぁ と

ただ淡々と毎日を頑張って過ごしていた
それが私の新婚時代だった。
No.22

2005年2月17日(木) 結婚
私は22歳で結婚した。
決してみんなから喜ばれて一緒になれたのではないけど、
でも、きっと頑張る!と心に誓って一緒になった。


あれは、初めて彼の両親に会ったとき、私はかなり緊張していた。
その時に言われた言葉は今も覚えている。
開口一番・・・「あんた、まだ気がかわらんのか?」

初対面で、いきなりだった。付き合って居ることは知っていたようだが
まさかこんな風に思われていたなんて・・・
姑は 近所にも色々聞いて回っていたらしい。我が家の事を。

「うちのあんちゃんはぁ、嫁さん貰うなら在所のもん貰うつもりやったんや」
「町のもんは 貰うつもりしてなかった」
「あんた、どういうつもりで一緒になりたいんや」
「嫁は家に合わせなあかんのやでな、建具は後から入るのを合わすんや」
「どうしても一緒になりたいんけ」等々・・・

私は はい、と いいえ、しか言えなかった。
空気がすごく重くて・・・
まるで私は、この家の財産目当てで結婚したいかのように言われた。

確かにうちは貧乏で、田んぼも畑も、何も無かった。
つまり、土地付の家から元気な嫁さんを貰うつもりだった。と
長男だし、理想は大きいよね。

そしてそんなやりとりの中、彼は何一つ言葉をかけてくれなかった。
そう言う風に育てられてきたんだよね
親が一番正しい。 親に逆らうことなどもってのほか。

それが当たり前なのだ と。

私は悔しくて、情けなくて、でも、絶対泣きたくなくて、
彼の家を出るまで、必死で涙を堪えていた。

そして当然のごとく、私は彼に、彼の気持ちを確かめたくて、
帰りの車の中で問いつめた。
なんで助けてくれなかったの!? と
なんで黙っているだけだったの?? と

こんな扱いをされているのに、何も感じなかったの? と

彼の気持ちがわからなくなった。
本当に私はこの人に愛されているのだろうか?と
もし、一緒になれたとしても、きっとこの人は変わらないだろう。

両親の言うがままで、その度に私は泣かされそうで・・・
彼は 一言、大丈夫だから・・・と言うだけだった。
それなら、今日言われた事に対して、何か親に意見して見せてよ!と言った。

作り笑いの中でしか生活できないような、そんな結婚はしたくない。

私はその日を境に彼には一切連絡をしなくなった。
いつもいつも誘いの電話をしてきたのは私だったから。
その事にも私は疑問をもっていた。
誠意を見せて!  
私は彼と別れる決意すらもっていた。

私が二十歳の頃の話し。
これで終わりなら、それも仕方がない・・・と。
No.14

2005年2月17日(木) 命の選択
私の母の、現時点に付けられてる病名は
肝性脳症・慢性腎不全・多嚢胞性・脳出血後遺症 この4つ

症状は 肝機能悪化による意識レベルの低下・腎不全による呼吸困難

入院時 肝機能を表すアンモニア数値は180まで上昇・意識障害あり
腎機能悪化により 肺水腫・クレアチニン6 すでに透析レベル

誰の目にも その状態の悪さは一目瞭然だった

でも私は Drから説明を受けるまでは 差し当たり今は腎臓の方が悪いのだろうと思っていたから、透析さえすれば 少なくとも今の辛さは軽減するだろうと考えていた…
肝臓も もちろん悪いが、まだ大丈夫だろう と

でも・・・診察室に入り Drの顔を見ると そこには今までにない険しい顔付きが・・・
一瞬 緊張が走った


母の状態は 私が予想だにせぬほど悪かった
すでに どうしようもない状態。そして辛い選択

このままでは当然 肝臓も腎臓も悪化の一途をたどる
しかし治療は困難で、肝臓は水分を必要とし、腎臓は水分を排出させねばいけない
まるで正反対の治療なのだ
じゃあどちらを取るか?
それはまさに 命の選択だ
私はその事を聞かされた時 一瞬言葉に詰まり、 うっ・・・と涙が溢れそうになった
でも 私が泣いてどうなるでもない 決断は迫られているのだ

肝臓の治療を優先すれば肺に水がたまる
腎臓の治療を優先すれば 意識障害が起きて昏睡に陥る
この場合…本人にとってどちらがいいのか? どちらも苦しいに変わり無いけど
果たしてどちらが 例えわずかでも楽になれるのか?
こんな事 とても本人には話せない
ただでさえ 心が落ち込んでいるのに… 本人にはあくまでも治療すれば 体が今より楽になるよ としか言えない
それでなくとも やっと透析にも納得しかかってその気になってくれたのに

この選択はあまりに残酷だよね

私はDrに 少しでも本人が苦しくない方法をお願いした。つまり 腎臓をとること

差し当たりどちらも、何とか少しでも持ちこたえるようにはしても、必ず二つの分かれ道に来る
その時は、多分すぐに訪れるだろう

だから今のうちに決めておかねばいけないのだ

そして夕方 家族が集まり再度私も家族と共にDrから説明を受けた
家族の意見は…私と同じ 苦しくない方法を、と
それから万が一、自発呼吸が出来なくなったとき、どうするか・・・
人工呼吸器をつけるか否か・・・

答えは・・・否
仮につけたとしても、意識は多分戻ってこないだろうと言われたから
いたずらに長らえさせるのは 本人が辛いだけ
いや・・・辛いと言うことさえ、解らない状態かもしれない
機械が無ければ生きていられない状態。
そして決して治ることのない体。

私達は自然死を選んだ。
Drは何度も、私達家族一人一人に聞き返した。
本当に、それで、いいんですね? と

でも・・・・  本人はどうなのだろう?
本当にこれで良かったのだろうか?
深夜・・・私に母は、言葉にならない言葉で・・・「しにたくない〜〜」と言った
とても弱々しく・・・でも、それが本心なら?
どんなことをしても生きていさえすればいいのか?
それとも、この言葉は 今の苦しみが言わせた言葉?
再々 母は、透析をも拒み、苦しいまま生き長らえるのは嫌やぁ と訴えていた
でも、本当は?

それはあまりにも難しい選択だよね
かといって本人にこんな事話せないし・・・

長く辛い毎日をとるより、短くてもいいから楽に、苦痛を感じずに・・・

私だったら?きっと後者をとるだろう。
命は大切だと思う。でも、時に辛い選択をせざるをえない

そして願うことは、どうか、少しでも笑顔の日を・・・
今はまだ苦しみだけのベッドの上だけど、もう一度!笑顔の母を見てみたい
笑顔にしてあげたい。

だから私も泣かない! 一緒に笑顔探し しようね

No.26

2005年2月17日(木)
私の新婚時代は怒濤のごとく・・・だったけど、
それでも、もし私に子供が出来たら・・・そしたら少しは賑やかになるし、和やかになるかなぁ なんて淡い期待もしてたんだよね
元々早く子供が欲しかった私は毎年の健康診断に出かけて・・・そこで言われた事は
「赤ちゃんを作るのは今は無理ですね」・・・・・・・がーーん!だった

昔から私は極度の貧血で、この時もかなり酷くて、通院して治さないと子供は絶対無理だと言われた。 それからと言うもの必死だったなぁ
まるで薬でもしてるのでは?みたいな腕をしていた。 ほとんど毎日造血注射に通ったから

でも、おかげでようやくOKが貰えて嬉しかったぁ
それから私の奮闘が始まった。 毎日目覚めと同時に基礎体温はかり・・・・
高温期が続いて・・・このまま下がらないで〜〜!という願いも虚しく、何度落ち込んだことか

色んな本も見て、どんな体位が出来やすいとか、いつが出来やすいとか、
でもなかなか私の思いは叶えて貰えなかった。
それでも数ヶ月の後 ようやく念願の妊娠がわかった時は嬉しかったよ〜〜〜
これで家族との間も穏やかな空気になるかなぁ〜なんて期待もかすめていた。
でも、それは甘い幻想だったさ・・・・

姑に妊娠を伝えて、その第一声が・・・
「子供出来たからっておめでとうなんては言わんでの、親子の間でそんな事は言わん」と
そうなの?でも、だからってそんな風に言わなくても・・・
せめて、良かったね。ってそう言ってくれれば嬉しかったのに・・・

そして子供が出来てからの私の生活も、なんら変わりなく・・・どんなに辛くても家事はしなくてはいけないし、当然田植えも・・・
その結果、何度も出血を繰り返した。
その度 姑から「ねんね出来ても出血なんか病気でねんや、私なんかしょっちゅうやった」と
辛かった・・・恐かった・・・もしこの子に何かあったらどうしよう・・・・って

そして何度目かの出血の時、とうとうDrから安静命令が出た。
このままでは流産してしまいますよ!と
この時、初めて私は両親に事情を話した。親はいますぐ帰って来い!と  そして、嫁ぎ先まで頭を下げにきてくれた。 どうか暫く実家に帰らせてやって欲しい と

私はようやく安心して療養することができた。
それから2ヶ月後、お腹も落ち着いて また帰ることに、
当然だが私への態度がそれで変わるはずもなく、また以前の暮らしに戻った。
それでも私のお腹の中には赤ちゃんが居る!その事が大きく私を支えてくれた。
守ってあげるからね!と
当時私は仕事にも行っていた。 布団や婚礼道具の卸問屋だ
みんなはいい人で、私を気遣ってくれたし、お弁当を囲む時間もすごく楽しかった。
大きくなるお腹を抱えながらも、店番業務に専念して、家にいるより数段気が楽だった。

でも、家に帰れば神経の休まる時は無く、眠るときだけが唯一の私の時間だった。
そんな中、また田んぼの季節。
もちろん私も稲刈りに出なくてはいけなかった。お腹が張ってすごく辛くて、
腰も痛くて・・・・しかも慣れない作業。
そんな中でも私は頑張ってたのに、「稲刈る格好がなってねぇ!ほんな恥ずかしい仕方してたら笑われてまう!」と姑にきつく言われた。
そしてその夜私はお腹が痛くて、次の日また病院へ行く羽目になってしまった

Drからまたも安静命令。次は切迫早産になるよ!と
それでもなんとか持ちこたえて、妊娠7ヶ月目・・・またも出血。
その時姑に言われた言葉。
「私も7ヶ月であんちゃん(旦那)生んだけど、すごい軽かった。出血なんかなんでもねぇ」と
でも、その育児は大変だったらしい。お乳を吸えなくて、ガーゼで飲ませたとか、ずっと体が弱かったとか・・・・
でも、それでも大丈夫だと私に言う。 そんなことが有るはず無い!
私は、今度は自分から姑舅二人に頭を下げた。 どうか生まれるまで帰らせてください と。旦那にも相談した。その方がいいだろう と

それから娘が生まれる2月まで、私は実家に居ることに・・・
もちろん生まれてからの1ヶ月も。 娘の誕生は大きな喜びとなって私の中に刻まれた。

ありがとう!無事に生まれてきてくれて・・・
でも、実際危なかったらしい。度重なる点滴や薬のせいで、綺麗なはずの羊水はドロドロになってたらしい。
本当に、頑張ってくれたんだねぇ 貴方の産声を聞けて良かった!
貴方をこの胸に抱くことが出来て良かった!それだけで もう十分の幸せを貰うことが出来た。

そして・・・私ら夫婦は、この娘に「幸恵」と名付けた

この子の人生が、どうか、沢山の幸せに恵まれますように・・・ と

No.25

2005年2月16日(水) 次女 2
うちの次女は はっきり言って頑固だし、ぶっきらぼうだし、そのくせ甘えん坊・・・

ホントにこんなんで大丈夫なんだろうか?と不安になるが
でも、そのうち変わってくるかなぁ なんて思ってる

朝、雨が降ってる日は私もおちおち寝ていられない。
今に言うぞ〜〜と思っていると・・・案の定
「おっかぁ〜 送ってってぇ〜〜」と(娘は私をおっかぁ と呼ぶ、いつの時代の子供じゃ!)
上の子は絶対甘えは言わなかった。雪が酷い日以外は頑張って通っていた。

どうも甘やかし過ぎたなぁ と思うが後の祭り・・・
私も、う〜〜ほんとにも〜と言いながらも しぶしぶ怠い体で鍵をつかむ。
そしてどうせだからと 向かいの姉の子にもメールを送る

車の中ではほとんど無言。ぼそぼそ後ろの席で二人が話すのみ
まぁ私は余計な事喋らない方が煩がられないからいいのさ

学校へ着く。「ほれ、着いたぞ〜〜」と
校門前は同じようにアッシーさせられてる親の車が列になってる。みんな親ばかばかり

車から降りる時、姪っ子はちゃんと「ありがとうございましたぁ!」と言う
娘は?期待はしてないが・・・
すると、今回はまさに棒読みで 「あんがと・・・」と お〜?!って感じだ
娘にしては上出来だな。(≧m≦)ププ なんせ普段からが無口な娘だから

その帰り道、少しだけ気分のいい私♪ 
まぁ確かに昔の子供に比べれば今は甘いよなぁ
でも、もし何か遭ったとき泣きたくないし、心配だし
元気で居てくれてるのは親孝行なのかなぁ などと変な理屈を考える
まぁいいっさぁ〜
そして帰りもまた迎えに行く親ばか・・・

その帰り道、寄り道をして欲しがってた小物を買う。
すっかり暗くなってしまった。
例によって私は 黙〜〜って運転してると後ろで二人がボソボソ・・・

娘:「あっ・・・めちゃ細い月や・・・」
姪:「え?どこどこ?」
娘:「あそこ・・・あっもう見えん・・・あっまた見えた」
姪:「え?!あぁぁ マジや。細〜〜〜」
娘:「でも、こゆい・・・」
姪:「は??」
娘:「こい!」
姪:「はぁぁ??意味わからんし〜〜〜」
娘:「・・・・・・・・・・」

(≧m≦)プ、変な会話〜〜ていうか、娘単語しか喋らない
つまり、細い細い月が でも、黄色くてくっきり濃ゆく見えるって言うことだね
文章にするのが苦手って言うか、しゃべるのが下手って言うか、
何かを伝えるにも照れてしまうっていうか、

でも、ちゃんと月に気が付いてくれた
家族で車に乗るときは私と上の娘が賑やかに あっネコがいるぅ♪♪とか花が綺麗♪ とか
それを黙ってただ聞いてるだけの次女だけど、
でも、なんか安心した(^^) 
全然そういうのに感心無いのかなぁと思ってたけど・・・ちゃんと見てるんだなぁって
ただ口にするのが苦手なだけなんだよね。
友達とかには話しもしてるみたいだし、こんな時は親はしゃしゃり出ないに限る

帰宅後、さっき買った物を次女に手渡す。
「はい♪これ欲しいんでしょ?」と
娘、無言で受け取ろうとするから、再び はい! と繰り返す
私は笑顔で、何度でも はい♪これ買ったよ♪ と両手でしっかり物を掴んだまま言うまで取られないようにしてる

そこへ長女が飛び入りで、次女の後ろから ムギュ〜♪と抱きついてきた
「ほらほら〜、何か言うことあるでしょ〜?」と
私もノリノリで はい、初めから行くよ〜って部屋に入るところから始める

次女は思いっきり棒読みで・・・「ありがと!」と言った
こんな時の顔はめちゃばつ悪そうで、でも、目と口元は笑っている
私と長女二人、うんうん これが○○ちゃんの精一杯なんだねぇ と
肩をポンポン叩く
こんな おふざけをしてしまうくらい次女はぶっきらぼうだけど・・・

でも、ちゃんと心の中では解っているんだなぁ と思う。
だから今はこんな頑固で、意地っ張りで、家族には挨拶もろくに出来ないけど
この角が取れればきっと良い子になるだろうなぁ なんて思える

私だって昔は素直に親に ありがとうの言えない娘だったもんな(^^;)
頑固で、熱が出ても黙って学校へ行ったし
部屋に閉じこもってばかりいたし、
まぁ違うところは甘えることが出来なかった所かな?

口は悪くても 私の娘さ! 
No.24

2005年2月13日(日) 障害
友達が先月 やっとヘルパーの資格を取得できた。

彼女は去年母親を白血病で亡くしたのだが、母親の世話をするうちに、自分は介護の仕事に就きたい!と思うようになったらしい

それから頑張って講習に通い、妹を嫁にだし、病気がちの父親とおばあさんの世話と近所付き合いを切り盛りしながら資格を取った。

以前勤めていた会社はわけあって辞めてしまったが、第二の自分の人生だと
張り切っていたのにさぁ

ようやく資格がとれて喜んでいたのもつかの間・・・
彼女は今 でかい壁にぶつかっている

彼女は幼いとき、原因不明の高熱で、左耳が聞こえなくなってしまった
その障害を抱えて、それでもちゃんと学校も仕事も普通の人と変わらず頑張ってきたのに

ここに来て、彼女は自分の夢が叶えられないかも、と悩んでいる
それは先日のこと。
数回目の福祉関係の仕事の紹介で出かけたときの事だ

なんと、彼女は面接どころか履歴書すら受け取って貰えなかったらしい
そう・・・・片耳が聞こえないから

そこの福祉関係の人に言われた と
「耳が聞こえない人はどこの施設へ行っても雇って貰えないですよ」 と

その時の彼女の落ち込みは私には計り知れないものだろうな・・・
今までも会社訪問とかで言われては断られた経験があるが。
やはり駄目なのか?! と
じゃぁなぜ、資格を取るときに最初に言ってくれなかったの?!と

確かに・・・高齢者や障害者の世話をする者が、危険を察知すべき耳の障害があったら
それは仕事をする上でかなりのリスクはあるだろう

でも、そういう障害を持ってる人にしかわからない障害者の気持ちを一番理解し、解ってあげられると思うけど
解っているからこそ出来る介護の仕方があるのでは?
それに今までその耳で生活してきてる。自分の事は自分が一番解ってると思うし
大勢に対するケアが無理でも、個人対個人の訪問介護とかなら大丈夫だと思う

それを頭ごなしに貴方は駄目です なんて言う人こそ福祉に向いてないんじゃないか?
私の姉は利き手が使えないけど、それでも仕事をちゃんとしてるし
他にも障害抱えていても りっぱに社会生活してる人沢山居る。

なぜ、無理だと決めつけるのだろう
それに、彼女には介護の経験もある。勉強だって頑張っている。


でも、現実はなかなか厳しいよね・・・・
彼女は家族を養い、尚かつ家のローンも払っていかなきゃいけないわけで
一家で働けるのは彼女だけだから・・・
自分の夢とか言っていられない状態に追い込まれている。

仕事しなきゃ生活していかれない。食べて行かれない。
諦めたくはないけど・・・仕事はしなきゃいけない。そんな状況なんだよね

私は彼女に話したさ
夢は持ち続ければいつかは叶うよ! と
今はとりあえず生活のために仕事探さなきゃいけないけど、
でも、まだ人生折り返し前じゃん。まだまだ先は長い!これからだよ! と

資格は消えないのだし、きっと役に立つ。 諦めずに前向きにね! って

彼女は私に  ライムは強いねぇ 羨ましいくらいだよ と言った
ん〜〜図太いくらい? 確かにね
でも、開き直る事も時には必要なんだよ! 落ち込んでいたら前に進めない
仮に今すぐは実現出来なくても、未来はわからないんだから

希望もって、笑顔で居ればきっと今を楽しく過ごすことは出来るはず

私は彼女を障害者扱いなんて全然していない。
ちょっと彼女の横に来るときは右側に来て話しかける事くらいだ

No.21

2005年2月12日(土) 寝息
深夜・・・

私の隣で寝ている旦那の寝息を聞いている・・・

少し私より浅い感じかな?私が2回息をする間に旦那は3回

私と旦那は結婚してからずっと同じ部屋、同じ布団で寝ている
この家に引っ越してきてからも、子供らが独り寝はじめてからも、
ずっと同じ敷き布団。しかもシングルだから狭い狭い(≧m≦)プ

掛け布団だけこたつ布団を使っているからこれで充分なんだよね
だって離れていると寂しいし、どうせくっついて寝るのだし

私は自分が寝付くまで旦那の腕を枕にする
自分の首の下に腕をまわし、自分より一回りでかい手を抱えるような感じで寝る

そうすると何故か安心できるんだなぁ

だけど苦手なものも・・・
それは心音。 これは何故か苦手だ
耳を肩に近づけると聞こえてくる心臓の音
規則正しく聞こえてくるから安心するはずが、私の場合はその逆なんだな

きっと恐いのかもね
色んな病気や突然死なんてニュースを聞くたびに、
もし突然そんなことが此処で起きたら?とか 想像するだけで恐くなる

ありえない!と思いながら でもやっぱり恐い
この心音が突然止まる なんてことがあるのだろうか?なんて・・・

私はそんな不安をかき消すように腕にしがみつく
ずっと、寝息を聞きながら こうしていつまでも一緒に寝られるといいなぁ
団地住まいで部屋は確かに無いけど、
たとえ大きな家を建てたとしても、やっぱり一緒に居たい

いびきが五月蠅くたって、寝言を急に言われて驚いたって
それでも一つの布団で寝るのさぁ〜

冷え性の私の手足を温めてね♪(≧m≦)プ

No.20

2005年2月11日(金) 友達
友達・・・
私には何種類かの友達が居る。

種類にわけるなんて失礼だと思うけど、
でも、人生長いと色々な人が増えるわけで・・・

学校関係の友達
近所付き合いの友達
そしてもちろん若い頃からの友達や
新しく出来た友達・・・

その中には年賀状での挨拶でしか話さないような遠い人も居れば
年賀状すら出さないけど、顔を合わせれば挨拶する人も居る

そして、
たとえ会えなくても心の中ではつながってると思ってる人も
色々居るよね


昔からの友達には切っても切れない腐れ縁って言う人が居る
それは性別関係なく心を開ける相手

その中に一人、昔 心から好きになった人が居る
普通恋のいざこざがあれば、自然と離れるか思い出したくないっていう感じになるのが本当だろうけど
なぜか私とはそう言う感じを通り越して、今でも失いがたい友達の一人になっている

相手もまた、そんな感じなんだろうなぁ
私は振られたわけなんだけど、思い切り爆発させた恋だったから、もうしこりとか無くなっているのかな?

でも、はたから見れば変な関係に見えるのだろうな
もちろん旦那も知っているし、
3人でよく飲みにも行った。

実際その人は変な人で、よく私に恋の相談とかしてきたもんさ
なんで私に聞くんだよ〜!って感じだったけど、まぁそんな関係だから仕方ない
私も、ヤレヤレ(−−;)と思いながらも相談に答えていたさ

好きな彼女が出来たけど、どうしていいのかわからい。とか
離れて行かれたら俺はもう生きて行かれない とか

オイ!って突っ込みたくなるような事ばかり

そのたび私は辛口の励ましを送る。
そんなんでどうするよ!ってね
両思いならしっかり捕まえていろっとか、離さない覚悟でぶっかっていけぇとか

そうそ、あいつは彼女が落ち込んでいても私に電話してくる奴だった

「彼女が悩んでいる。どうしたらいいのかわからない」
(あんたが支えてあげないでどうするよ?私にどうしろと?)

「彼女が離れていったら俺はもう生きていられない」 
(そんな弱気で恋なんかするな!)

「彼女を支えていきたいけど凧の糸が切れたみたいになりそうで、もし彼女が切れたら俺も切れてしまう」 
(私の方が切れて飛んでいきたいよ!)

なぁんて感じで・・・

「彼女を支えようとすることで自分自身を支えている。毎日潰れそうで壊れそうだけど彼女が居るから未だ立っていられる」
なんて事を まるでのろけにしか聞こえないっちゅうに 
彼女に言ってあげてよね!

ほんとにこんな調子で私の気持ちを知ってか知らずか・・・

そりゃもう私との関係は友達以外の何物でもないけど
少なくとも私は彼に愛を告白した本人なのに?
こうまで信頼されると、受けてたつより仕方ないべ

だからと言って甘い顔はしないさ。
いつも辛口ではっぱをかけてあげてたさ

もっと前を向いて、図太くてもいいんじゃないの?って
自信をもってしっかり支えてあげなきゃ駄目やん って
でなきゃ、せっかくの幸せが指の隙間から零れていってしまうよ と

支えあえる人ができて良かったやん。守りたい人に出会えて良かったやん
到底私ではその役をなしえなかったから振られたわけで・・・

もっと私が 儚げで気弱で、守りたくなるような女性だったら恋人になれたかな?
なんて嫌みも言ってみたりして・・・ハハハ

でも、結局はそれでも駄目だったろうけど、そんなことはもうどうでもいいさ


だけど・・・本当は嬉しいんだけどね
そうやって私を頼ってくれることが
たとえそれが恋の相談や彼女を心配する内容でも・・・

きっと私にしか話せない事なのだろうから・・・
男って同性とかには弱みを見せたがらないよね。異性にもそうかもだろうけど
特にあいつは誰にも相談したがらない性格かも

強がりで、頑固で、意地っ張りで、
まるで私だな(≧m≦)ププ
だから上手く行かなかったのかもね。同じむじなだから

私の旦那もある意味何も話さない人だけど、それは全く別の意味だ
つまり深く考えないから悩みもない
悩みが無いから話すことも相談もない
幸せな人種なんだよなぁ  のほほ〜〜んとしてる

それが私には丁度よかったのかも?
喧嘩にもならない。私が一方的に腹立てる事はあったけど
相手は何で怒ってるのかも解らない人だから
引きずることもないし、悩んで眠れなくなるなんて事も無縁の人だ

私はと言えば悩むことはもちろんあるが、昔に比べてかなり図太くなったというか

脳天気と言うか、
ん〜つまり、そんなことで悩んでいるうちに大切な時間が無くなる気がして
前向きに考えられるようになったのかなぁ
人はそれを心臓に毛が生えた と言う(≧m≦)ププ

開き直りも時には必要さ!
今日の事で明日 後悔しないように・・・

悩めることは幸せなことの裏返しなんだよ
だって、悩むと言うことは
解決させる手段をもてると言うことなのだから

悩んでもどうしようもないことなんていくらでもある中で
どうしよう・・・って悩めるのだから
そうなりゃ前向きにぶつかればいいことじゃないか

そしてそれは 自分がそこに居る限り 幸せへと続く道だと思うよ

No.19

2005年2月10日(木) カセット
下の娘が突然、「魔女の宅急便のカセットは?」と言い出した。高校生の娘が・・・

え?なに、魔女の?カセット?今聞くの?
急に思い出したかのように言うからビックリさ。
まだ我が家にカセットしか無かった頃、子供の為にひたすら色々カセットに録音したもんさ
その中の一つ。

戸棚の中に片づけてそのまんまだから 果たしてまだテープは伸びていないのかどうかもわからないけど、とにかく探してみると色々出てきた。
懐かしいなぁ〜〜古い歌ばかりだ
でも、今はこれを聴く方が大変だな。まずラジカセがいる。
娘のを借りなきゃ聞けないさぁ PCはCDしか聞けないし、 カセットなんて今時もう古いよな

取りあえず、出てきた魔女の宅急便(ドラマ編)と他にも ナウシカやラピュタ、トトロ・・・
色々出して娘にわたした。
娘は早速聞きだしたが、なぜか聞こえてきたのは?風の谷のナウシカ? ハハハ
これもドラマ編だ。 何度も何度もビデオで見てるから映像がありありと目に浮かんでくるよ

娘はこれ聞きながらせっせと内職始めた。 聞き入って間違うなよ〜クレームくるぞ〜!

そう言えば今夜は上の娘はお友達んちにお泊まりに行って居ないんだなぁ
高校の時の仲良し組で今夜は宴会らしい
貧乏仲間だから家でつまみを作りあって持ち寄りだとさ(≧m≦)プ
たまにはいいよなぁ〜 こういう友達は一生大事にして欲しいな
No.18

2005年2月9日(水) ひぐらし
好きに買い物出掛けてブラブラしたい
部屋の模様替えを思い切りしたい
趣味のパソコンや手芸を心行くまで楽しみたい
たまには友達に会いに行きたい

でも それを今すれば 必ず夜中眠くなる
今は元気にしてても必ず夜中に疲れが出る

だから私は何も考えないようにして布団にもぐる

私にも多少まだライバル意識は残っている
誰かがバリバリ活動してたら羨ましく思う
仕事だってやりたい
地域と交流だってしたい

でも 私は自分の体力を知っているから
もし 始めても中途半端になるのが嫌だから

だからどこへも入らない

知らない人は私に言う
「あら、今働いてないの?いいね〜家に居られて。うちなんか働かないと食べていけない
し遊ばせてもらえんわ〜」と

私は何も言わず笑ってる
うん プ〜してるよ〜と

いちいち説明もしたくない
好きに思われればいいさ と…
現に昼間は寝てるし 働いてないし
あえて貧乏だよとアピールもしない
じゃあなんで働きにでないのと思われるだけやし

一部の親しい友人だけわかってくれてればいい
あまりに私を知ってるだけの人が多いから 会うたび色々今どうしてる?と聞かれて そ
のたび一から説明するのは まるで自分を正当化させるあがきみたいに思えて

だから私は笑って ただ 家で遊んでるよ〜と答える
そうしたらたいてい あらいいね〜楽出来て〜と返ってくる

田舎だし 主婦=遊んでる になる

以前はそう思われるのが嫌でたまらなかった
好きで家にいるわけでも 寝てるわけでもない

仕事だって 活動だってしたい 大好きだから


昔の私を知ってる人は不思議がる
知ってるがゆえに顔を合わせば今は何してるの?と聞いてくる

時々悔しく思う時さえある
さも大変そうに 私は朝から晩まで仕事やよ〜とか
今日も役員会で忙しいんよ〜とか

さも自分は私と違って大変なんだよと言ってるみたいで 釈に触る

確かに大変だよね
でも外に出られることは幸せなんだよ

中には無理して働いてる人もいるだろうけど
働きたくても働きにいけない人からみれば羨ましいよ

調度 学校に行きたくても行けない人が
軽い気持ちで学校生活してたり嫌になったから辞めてしまったりする人を見るような気持


まあ人それぞれ生き方考え方はあるだろうけど

でも そんな欲を持ち出すと自分が辛くなってくるから何も考えない
思わない

今の自分の生活を支えていくだけ

でもそんな人生を嘆いてはいない
これが私の生きる道だから

そう思えるから私は笑って答えられる

「うん 私は家で遊んでいるよ(*^^*)」ってね
No.17

2005年2月8日(火) 温泉へ行こう
04/10/27日  急遽予定たてて友達と温泉へ行ってきたぞ!

格安プラン 
温泉+プール+リラックスアロマ・マッサージ+豪華夕飯+朝食バイキング+お土産+各施設割引券
全部しめて、11800円!! 安い〜(≧▽≦)

女性二人で、のんびりたっぷり楽しんできました。
まずは二人、JR駅で往復切符購入 もちろん駅弁も!

当然午前中はゆっくり仕度して昼前出発さ♪
電車は走る、のんびりガタゴト・・・各駅停車・・・
どこまで行っても窓から見えるのは田んぼと畑とうららかな田舎町

途中1回乗り継ぎで、約2時間、
乗り込んだとき変に苛立ってるおじさんが居たけど、気にしないさ
ぼやく人はぼやかせておいて、私らは駅弁に舌包み♪
美味しかったぁ〜(^__^)♪

前回の温泉も慌てない旅だったけど、今回ものんびりしたもんだ
目的駅に着いても無料送迎バスまで時間がたっぷりあるから
そこら辺ブラブラと、美味しいお茶でも?(^m^)クフ♪

いざ、バスに乗り込んで温泉に到着〜
お〜〜!プールだぁ〜〜!大きい〜〜!綺麗〜〜♪と
まずは颯爽と水着に着替えて温泉プールへ!
浮き輪持参ではじけてきたさ♪アハハ(^▽^)
いや、浮かんできたさ(≧m≦)ププ流されてきたとも言う・・・

たっぷり浮かんだ後は温泉だぁ
天然温泉にゆったり温もって、身も心もホヘ〜〜〜って感じ〜

それから次はマッサージ!初めての体験だよ
カウンセラーを受けて体調を細かく調べてからオイルを調合してくれたさ
いい香りで、首から腰にかけてしっかりマッサージ・・・

でも、かなり痛かった(^^;)この痛みはやっぱ我慢しなきゃいけないのね と
ぐっと我慢(T^T)ククク
でも、どんどん体がポカポカになってくるのがわかったよ!

そしていよいよご馳走だぁ〜!もう期待以上に豪華だった。
生ビールも心地よく喉を通って生きてて幸せ〜!って感じだな
2杯飲んだぞ!で、お腹一杯になったから次はワインを頼んだ

何も考えず白をもらったら・・・ん?ちょい辛い〜 いやかなり辛い?
二人して ウェ〜〜〜!状態で・・・
そこで考えたさ、これは葡萄だから、葡萄のジュースで割ればいい!ってね

早速オーダーして、ワインと割ってみた。 うん(◎▽◎)v美味しい!
バッチリだ! ほどよく酔って、しばし休憩

その後、カフェレスでまたまた飲んで食べたさ (≧▽≦)アハハ
今回は食べるか 水に浸かるかどちらかだなぁ〜
あれやこれや、もう食えましぇ〜んってまで食べたぞ!

お腹も一杯、瞼も重〜い。いやいや!まだ寝るにはもったいない!
再び温泉へGO!(≧m≦)ププ  露天風呂からは星が見えて綺麗だったぁ

で、とどめにデザート〜♪冷たい物で体をクールダウンして
寝る前にひと遊び♪ゲームコーナーではしゃいでしまった♪
戦利品もバッチリ!(≧m≦)プ

遊んだなぁ〜〜さすがに疲れたぞ。時計は3時
部屋に戻って何もしないでお布団に沈没〜〜〜気が付けば朝だった

でも、悲しいかな 毎日の習性で6時に目覚めてしまったさ
まだ寝れるな、と迷わず二度寝・・・これがまた気持ちいい。

ギリギリまで寝て、朝食だぁ〜!
でも・・・さすがにあまり食欲が無い。だってついさっきまで食べたからねぇ

食べた後は、再びプールだ!24時間スティだから時間は昼まで。
今度は時計見ながらだけど、しっかり遊んだぞ♪
外は雲一つない青空♪ 風景だけ見れば常夏のハワイ♪って感じだったぁ

でも、実際は 外はすっげ〜寒いの。 水の中から出ればそこは気温10度?
屋外なんて誰もいないし〜(o≧▽ )ノ彡☆バンバン ギャハハハ

貸し切りプールだぁ〜〜!
そうそ、屋内にあったシンクロプールで・・・
私と彼女は浮き輪もったまま入ろうとしたら監視のお兄さんが
「あっ!そこはシンクロ用で深いです!浮き輪お使いの方は入れません!」って
あらぁ〜駄目なの?せっかく遊ぼうと思ったのに〜  と浮き輪をはずし
再度そのプールへ入ろうとしたら・・・
またまたお兄さんが見てて、「あぁ!そこは深いです!足がつきませんよ!!」って

わかってるよ〜〜〜!深いんでしょ?泳げばいいじゃん! って
二人顔を見合わせて泳ぎだした。
それでも心配そうに見てるお兄さん・・・・
きっと私達が浮き輪持ってたから泳げないと思ったのかな?

思わず吹き出しそうになりながら・・・私これでも元水泳部だよ って
ようやく安心してそこを立ち去ってくれたよ(^^)
ありがとうねぇ 優しいお兄さん♪
深い深いプールの水中に沈んでしまったらもう引き上げられなくなる?
大丈夫!水の中は体重軽くなるから!(≧m≦)プ

楽しい時間はあっという間に過ぎるよね
最後に温泉で軽く流して、再び無料バスでJR駅へ

お土産も買わなきゃ!!
ばぁちゃんも食べられそうな物を物色・・・
もちろん家族のものや自分への記念もね

帰りの電車の中ではさすがに疲れて口数も少なく・・・
それでも口は動く?売店で買ったポッキーをポリポリ・・・アハハ

最後の最後まで食べて、遊んで、楽しかったぁ〜〜
今回電車だから、かなり歩いて疲れたけど、やっぱいいねぇ〜

また鈍行にのって、のんびりどこかへ行きたいね(^^)♪

No.16

2005年2月7日(月) 夢・・・生き甲斐・・・
私は結構若い頃から色んな活動をするのが好きだった。

学生の頃は 率先して体育祭の応援団に入ったり、
クラス代表で卒業アルバムの作成委員になったり、

楽しいこと 賑やかな事が大好きだった。
俗に言うお祭り好き?

高校を出てからは地域の青年団に加入し、色んな行事をしてきた。
1年中 仕事から帰れば、疲れも気にせずいつも公民館に入り浸ってた。

そして そこで知り合った人を好きになって、失恋して・・・
また誰かを好きになって・・・
その人が今の旦那だけど、あの頃は切なくもあり、輝いていた時期でもある

活動は様々で、ボランティアあり、楽しいレクレーションありで・・・
地域に密着した活動も沢山あった。

ある時は文化祭講演の演劇に参加し、私が書いた脚本で監督兼主演と、そりゃぁ燃えた。
結果は優勝。市の演劇発表でも選ばれ、丹南地区代表まで行った。
ただ残念なのは、その最後の講演に私が参加出来なかったこと。

結婚前の最後の行事だったから、丹南へ行く頃にはすでに結婚後で
本当は最後まで続けたかったのにそれを姑に駄目だといわれてしまった
悔しかったけど・・・仕方ないよね
私は脚本の手直しだけを引き受けて、こっそり夜中に書いていた。

それが最後の私の青年団としての仕事だった。

それから月日は流れ、
子供も生まれて・・・・色々なことがあった。
私は2才の娘と嫁ぎ先を飛び出して、新しい生活をはじめた。
旦那とは別れる覚悟だったけど、戻る気のない私に彼は着いてきてくれた

幸せな時間だった。
その中で、また私は今度は子供を通じて役員に選ばれ、
再び活動をすることになった。
普通はみんな役員になることを嫌がり、面倒くさがるのだけど
私はすごく楽しかったよ。

交流も広がって、私の知らない人からも名前を呼ばれることが増えた。
保育園・・・幼稚園・・・小学校・・・と
二人の子供が順に高校へ上がるまで、約15年間 何らかの形で続けてきたように思う。

でも、いづれ子供は成長し、下の子供が中学を卒業すると共に
私の役員生活も終止符をうった。
ほっと肩の荷が降りたようで、何かしら寂しいような

最後の送別会では 胸がキュ〜っとなるような思いで目頭が熱くなった。
様々な思い出がよみがえってきて、心から楽しかったなぁ と

最後の1年は母の入院でとても大変だったけど、なんとか続けることもできた
でも、もうこれで本当に最後なんだなぁ

地域の活動はあるけど、私にはもうそこに参加するだけの余裕が無かったから
本当なら、そこで知り合った仲間ともっと広い場所へ飛び出したかったのかも

時々広報が配られて、地域の活動を見る。
そこには知った顔ぶれが・・・

”いいなぁ〜〜・・・・” つい、本音が漏れてしまう・・・

私もこの中に入っていきたいな・・・と
でも、今は出来ない。

思えば、私の小学校の頃からの夢だった保育士になれた時も
私は毎日生き生きとしていた。
でも、結婚して、その夢は姑の一言で辞めざるをえなくなって
全く違う仕事を点々とまわり、

いつしか夢は夢のまま胸の中に納められてしまった
続けていきたかった。
でもどうしようもないよね

そして今、私は両親の介護に明け暮れながら毎日を自分なりに精一杯生きている。
ともすれば夢など見てる余裕なんてないけれど
でも・・・私はそれでも夢は持っている。

今の私の夢・・・
いつか、私は どんな人でも利用できるような
ほんわか まったりできるお店を開くこと。

独身の頃取った調理師の免許と、今のこの介護の経験を生かして
なかなか出ることのできない障害者や、小さい子供を抱えた親子でも
気楽に利用できる、明るい店。

もちろんそこには 障害や子供に合わせたメニューを揃えて
他ではできない外食ができるような・・・
みんなが一緒に楽しめるお店。
嚥下食・離乳食・アレルギーに対応した食・そして普通の食。と

それを友人や弟嫁に話したら、その時は是非一緒にやりたいと言ってくれた
友人はヘルパーの資格を。嫁さんは栄養士の資格を。
そして私は保育士と調理師の資格がある。

こんな話をしているとすごく楽しくなるね!
いつか・・・いつか夢が叶うよう・・・
人生まだまだこれからさ 
私の最終地点はきっとこの夢にたどり着く。

そう信じて、今は自分の生活を頑張るのさ!
いつか、夢は持ち続ければいつかは叶うと信じて。
No.15

2005年2月5日(土) ギックリ談
ギックリ腰・・・その名の通り、突然ギクッ!となって立てなくなる

私の場合、一番最初が一番きつかった!
季節は忘れたけど、私は久々に風邪をひいて、高熱出して寝込んでしまった
でも、主婦たるもの そうそう寝込んでもいられない

熱も下がったし、たまった洗濯物をしなきゃなぁと・・・
洗い終わった洗濯物を干そうと、カゴからしゃがんで取って立ち上がった瞬間!

カクッ!・・・・と
一瞬何が起きたのかわからなかった。
突然力が抜けて、その場に座り込んでしまった。
そしたら今度は、もう痛くて動けない!! え?!何??何で〜〜?!

横に居た家族は私がギャクでもしてるかのように笑ってるし!
笑い事でないっちゅうに〜〜〜!マジ動けないの!!痛いの〜〜(≧□≦)

その後、どんな思いで病院に行ったことか・・・
旦那につかまり、痛みを堪えて・・・
そしてそれから1週間、私は腰の痛みと戦ったさぁ

まず、寝返りが出来ない。
お尻なんて、絶対動かせない!
ヒ〜ヒ〜言いながら横向きになったり、仰向きになったり

とにかくじっとしてることも苦痛で

トイレも大変だった。
そこまで行くのも大変で、髪振り乱して、はいずって、ようやく着いても立てない
そこらじゅうに捕まりながらやっと立ち上がってトイレに座る
この時ほど洋式で良かったと思ったさぁ

家事仕事なんかもってのほか・・・自分のご飯すらできない
水も飲みにいけない。
なんせ立ちたくないのだから。

咳やくしゃみも大敵だぁ!出そうもんなら、必死で堪える
堪えられないとその瞬間腰に激痛が走る。

そんな私は病院で初めて腰に注射をされた。
長い針を腰の背骨に刺して・・・・めっちゃ痛い〜〜〜〜!!!
でも、これしないともっと痛いし・・・

そんなこんなで、私はギックリ常連さんになったさ
今回はこれで何回目?4回?5回?

今回のは多少初回よりは軽いけど、でも、痛いのには変わりない

即、病院に行き、腰に注射2か所・・・
その前に、レントゲンも撮っておきましようって言われて、
横になるのもままならない私に、あっち向いて、こっち向いてと
あげくに、息もぜいぜいな私に、「はい、息を全部吐いて、止めてぇ」
って、オイ!私を殺す気かぁ〜〜〜!!って感じで

マジ辛かったぁ〜〜〜吐いて止めるんだよ?肺のレントゲンは吸って止めるけど
吐いて止めるのは すごい辛い〜〜〜〜マジ気が遠くなりそうだった

それから自宅に自力で帰り、布団しく力もなく
カーペットの上に転がったさ
転がったが最後、もう起きれなかったさぁ

貞子状態で・・・這いながらしか歩けないし・・・
立っても何かに捕まらないと歩けないし
手を洗う事もできない。片手づつ捕まりながら洗うしかない

1日目はとにかく安静に・・・・
2日目は・・・まぁまぁ少しは?と思いきや
なんのその、前日より痛みがきつい。
仕方なくまた病院に行って注射をしてもらった。
それでなんとか?少しは治まってきたが、それでもまだ寝返りは痛い

お風呂も大変だ。
しゃがむことが出来ない、座って居ることも苦痛。
かといって立っているのも辛い。じゃぁどうするねん!!って感じで

なんとか旦那に一緒に入って貰って洗って貰ったさ
なんせ体も拭けない。
足が上がらないからパンツも履けない。
腰が曲がらないから靴下も脱げない 履けない。
子供に脱がしてもらったさぁ(;▽;)アハハ

ギックリして3日目・・・・
とにかく1日安静にしてて、なんとか寝返りも出来るようになり
椅子に座っていてもあまり痛くないようになった
それでも、まだ立ったままパンツは履けない〜〜
どこにも捕まらず立ったり座ったりもできない

ひたすら薬を飲んで、シップ貼って、寝るだけ。

ギックリはとにかく安静に寝ている事。
でも、それが出来れば苦労はしないんだけどなぁ〜〜〜

完全に治って復活するのは1週間はかかるよなぁ〜〜
情けな〜〜〜〜

ちなみにレントゲンの結果は・・・
私の腰椎の第4番目と5番目が かなり狭いらしい
だから何かの拍子にその間の神経に触り、激痛になる

一番の予防策は、まず痩せない!!と言われたぁ
そんな簡単に・・・
痩せたい気持ちはあるんだよ〜〜〜(ToT)
No.13

2005年2月4日(金) 私の誕生秘話
私は生まれも育ちも此処、福井県
しかも自宅出産だった。
私がお腹に居たとき、私はやたら出たがる子だったそうな・・・
だからそれを阻止しようと、絶えずお腹を暖めるために母は風呂を焚いて湯に浸かっていたそうだ。
それを近所の人が、『今に子供もふやけてしまうよ〜』と嫌みを言ってたそうな
でも、おかげで無事?臨月を迎えて・・・
産婆さんじゃなく病院の先生が自宅まで往診に来てくれて、まだ生まれないでしょうが・・・
と言い残し、取りあえず看護婦さんだけ残して帰ってしまった。
しか〜し!その後!私はまた性懲りもなく お腹から出たがって、先生の戻って来る前に なんと出てきてしまった!
しかも!その時私は首にへその緒をしっかり巻き付けて・・・
全身チアノーゼ。呼吸もしない。産声もあげない!
看護士さんは焦っただろうねぇ
私を逆さにぶら下げて思い切りお尻を叩いたそうだ!
で、めでたく生還(^−^)♪
しかし・・・その後がまた大変だった。
事も在ろうに看護士さんはへその緒をおチンチンと間違えて、男の子です♪と・・・
きっと気が動転してパニクってたのかも
で、もとより男の子が欲しかった私の家族は、そりゃ大喜びで!
当時7才の姉は近所中に大声張り上げて『男の子だよ〜〜!』と触れ回ってしまった

狭い長屋住宅だったからねぇ すぐに広まるさ
その後、間違いだって気付いて、父はすごく落胆したらしい。
別に私のせいじゃないのにねぇ

そして、何もかも落ち着いた頃先生がようやく到着。
12月25日 クリスマスのことさ
No.12

2005年2月3日(木) 旦那のこと
私の旦那は農家の長男に生まれた。

米は田んぼが作ってくれて、
野菜は畑が作ってくれて、
その世話は両親がせっせとしていた。
もちろん農家の子供は否応なしに小さいときから手伝いを強要されてきただろうけど、
でも、食べることには困らない生活だよね。

当然、お金も貯まる。

旦那が若い頃、そりゃ立派な車を転がしてたさ。
私は?と言えば・・・
せっせと働いて、親には甘えられず、ローンで中古をやっと買って、

それまでは安いバイクに乗って、片道40分の職場まで走っていた。

パイパスを走れば、鼻の穴が着く頃には真っ黒になっていたさ。

高校の頃も、私はバイト三昧・・・貧乏だったからね
勉強もしなきゃいけないけど、当時私はオルガンが欲しかった。

なぜなら高校で初めてピアノを習いだし、どうしても練習が必要だったから。

夢である保育士の試験を受けるために!
でも、両親にはこれ以上甘えられなかった

やっとの思いで購入したときはそりゃ嬉しかったぁ
今でもそれは残してあるよ。
娘らは必要もないのに〜と邪魔扱いするけど

これは私の青春の証でもあるのさ!

こんな思い出・・・旦那にはあるのかなぁ

部活もしてなかったし、バイトも1度きり。

地域の青年団で知り合った時、ホント、軟弱に見えて
絶対 こんな人を彼氏になんてしないぞ!って思った。

ただ、顔は好みだったんだよなぁ ハハハ
童顔なんだけど、今で言うジャニーズの可愛い系?

面食いじゃないけど、笑顔は良かった。
色白だったし、二重でまつげなんて、ばさばさだった!
私なんか、マスカラとビューラーでカールさせなきゃいけないのにさ。

でも、女心は皆無わからない人だったな。
付き合いだした頃、初めてのクリスマスの夜。

あやつは事もあろうに自分の車かわいさにトラックで来たんだよ!

こっちは誕生日だし、雨が降って足下も悪かったけど、
綺麗におしゃれして、雨の中傘さして震えながら待っていたのにさぁ

あの時はマジで切れたね!!

思えばいつだって優柔不断だったし、
デートはいつも海岸を走るだけ・・・オイ!って感じ。

家に遊びに来たときも、挨拶も出来ない人だった
うちの両親は、挨拶の出来ない人は大嫌いな人だから、私は苦労したよ!
せめて、こんにちは。とお邪魔しました。くらい言ってよねって。
そうそ、そういえば、嫁いだ時、姑に、出かける時に何も言わずに出かける旦那を見て
事もあろうに、「あんちゃんが挨拶もせんと出かけるのは嫁のせいや!」って
おい!それはないでしょ?誰の息子やねん!

自分の息子は私に会わなければ良い子の息子だと思ってたのかねぇ

当然こんな人だから自分の親に逆らうなんてもってのほか?な人だったろうし

だから一度は本気で別れを決意したのになぁ

だって初めて彼の家に遊びに行ったとき、私はすごい言われようだった。
にも係わらず、あやつは何も助けてくれなかった。
この話は話し出すと長くなるからまた今度だけど、

だから絶対この家では私はやっていけないと感じた。
両親も反対だったし、誰に聞いても反対されたからね

名付け親のお寺の先生にまで反対されてた。
黒いモヤが立ちこめているから絶対上手くいかないだろうって。

それなのにさぁ

人生ってやつは・・・・
それとも私が馬鹿なのか?

ずっと口もきかず、連絡もせず、このまま彼から電話もなかったらマジで別れようと思ったのが10月?
そして、また私の誕生日が近づいてきて・・・

このまま年を越えたらもう絶対終わりにしよう!って心に決めた夜。

初めて・・・付き合いだして初めて彼から自宅に電話が来た。

会いたい   って

馬鹿じゃないの?って思った。
でも、心の奥では待っていたのかも

そして誕生日の夜、私は別れるつもりで彼に会った。
それなのに・・・
顔を見たらやっぱり駄目だね。

しかもあの人ったら、私が別れようって言ったら、そんなこと言わないでくれ!って涙見せるもんだから!

あぁぁぁこの涙が・・・・・私の人生狂わせた?ハァ〜〜〜(_"_;)

で、翌年夏に結納・・・
早まったね(−−;)21歳だよ
親に、結婚するか!別れるか!?どっちだ!なんて言われて攻められて

田舎の悲しさかな・・・・

春には結婚。

でもまぁ結局あの家では我慢もブチ切れて
追い出されるのを待ってましたとばかりに飛び出してきたさ

今じゃ親子4人、賑やかに たまに雷落としながら?

しぁ〜わせに暮らしてるけどね(^m^)

未だにどこが良かったのか?と聞かれても
ん〜〜〜惚れられた私がいけないの?なぁ〜んて(≧m≦)ププ

あばたもえくぼなんだなぁ
好きになってしまったのだから仕方ないべぇ

アハハハハハ(^▽^)
No.11

2005年2月2日(水) 私と父
昔の私。

私は幼少時代からかなり厳しく父親に育てられてきたように思う。
家の手伝いは当たり前、3人兄弟の真ん中の私は次女で下は弟。上は7つ違いの姉。
そのせいか、妙に私への風当たりはきつかったように思うけど、当時は逆らう事もできず、親の言うことは絶対だった。

父はお酒が入ると人が変わったように気性が荒くなる。
何でもないことでも気にくわないと、当時愛用にしていた長い煙管の頭で、私は頭や手を思い切り叩かれた。
あれは痛かったぁ!恐怖だったね

弟と二人、夜に玄関の外へ裸足で追い出された事もあった。
何で叱られたのかは忘れたけど、泣いて泣いて謝ってた記憶が今も残っている。

頑固で意地っ張りで黒を白と思ったら絶対白と言い続けるような、そんな父に母は未だに、よく我慢してきたと思うよ〜とぼやく。

でも、こんな父にも良いところがあるから我慢できたんだよね。
人情家で、頼まれると嫌と言えず、
陽気な時は大声で笑い、思いこんだら一生懸命で、
私たちの為に汗水働いて、貧乏なりにも精一杯の事をしてくれた。

ベッドやブランコ、滑り台も作ってくれたね。今でも覚えてるよ。家の中に作ってくれて、狭い長屋だったけど、楽しかった。
旅行へも連れて行ってくれたなぁ。添乗員だった父は家族も一緒に年に1度は遠出をしてくれた。
楽しかったぁ

でも、頑固なのは折り紙付き。

私が物心つくころには姉はもう大きくて、家に居ないことが多く、もっぱら家の手伝いは私の役目だった。

小学生の時、一番嫌だったのが、肥溜めのこやしまき。
トイレなんて言うこじゃれた言い方なんかじゃなく、まさに便所と言うべき我が家のトイレの中身を、肥樽に入れて、担いで畑に蒔きに行く事。

肩に担ぎ棒が食い込んで痛かったぁ

こんな事もあったな。
洗濯物を取り込もうとして玄関先を歩いていて、
前が見えないくらい抱えていたから目の前にあったゴミ焼却のいっとう缶に気が付けなくて・・・

私は思いきりそれをまたいで、足に大やけどを負ってしまった。
すごい悲鳴を上げた私の所へ、両親は飛んできた

両太股に大きな火傷。

女の子なのにごめんなぁ と母親は泣いて謝ってた。
私の不注意なんだけどね。
でも、手厚い手当てのおかげで、今はもうその痕は跡形もなく消えている。

でも、私に対する厳しさは相変わらずで、
ある時、友達が遠くから遊びに来たときも、私は外の草むしりを頼まれていて、父親は頑として、用事が済むまで友達と遊ばせてくれなかった。

待ちきれず、友達まで草むしりを手伝ってくれた。
今でもその友達に語り継がれているよ。
厳しいお父さんやったなぁ。あんたに対して特に厳しかったがぁ と。

確かにね。弟は男だから とあまり手伝いさせなかったし、姉は長い一人っ子生活だったせいか甘やかさせて育ってきて、
二番目の私は真ん中に挟まれ、かなり厳しく育てられた。

学校を卒業して社会人になってからもそれは変わらず、門限はきつかったなぁ

青年団の活動をしていても、時計ばかり気になった。
仕事の後に集まるのだから遅くなるのは当たり前なのに、少しでも帰りが遅いと、玄関先で仁王立ちで待っていた。

あの頃は事あるごとに父親に反発して喧嘩ばかりしていて、当時好きだった彼に相談しては、いつも慰めてもらっていた。

一番困っていたのは母親だったかもしれないね。
わかっていても父親の言うことが一番で・・・
私も若かったし、こんな父が嫌いで堪らなかった。

こんな事があった。
久々に同級生と集まろうと、いう誘いがあったとき。
私は父に頼んで外出させてもらおうと思った。
ところが、家の手伝いをするのは当然だ!といつもの口調。
仕事が休みの日は家事手伝いの日と決めつけられて、一歩も引かない。

時間はどんどん過ぎる。
なんで わざわざ会いにいかなあかんのや!と父の言葉に私は泣いてしまった。

当時、自家用車などもっていなかったし、電車で行くしかなかった

待ち合わせの時間がせまり、大泣きする私に母はなんとタクシーを呼んでくれた。

当然、もう間に合う電車が無かったから、遠くの町までタクシーを走らせてくれた。

もちろん母も同乗して着いてきてくれた。

でも、完全にへそを曲げている私は一言も母に話さず、町に着いてからも ありがとうの一言も言わず、足早に友達の所へ走って行ってしまった。

今思えば・・・・

すごく貧乏だった我が家が高いタクシーをだしてくれた事さえ大変な事なのに、
その母親は、遠い道のりを一人でまた電車で帰らなければいけなかった。
どんなに母は寂しかったかなぁ

せめてありがとうと、言っていれば・・・
今でもあの場面を思い返すと、母の顔が寂しそうでやるせなくなる。

こんな母にも反乱はあった。

反抗する私たちに切れて、一切口を利かなくなってしまった時があった。
この時はさすがにみんな堪えたね。母の偉大さに気づかされたよ。
数日口をきいてくれなくなっただけで、全然生活が回らなくなってしまって
いかにいつも世話になっていたか、助けられていたか、みんな思い知ることができた。

兄弟で平謝りして許してもらったよ。

でも、別に反抗するつもりはないのだか、どうしても父には逆らってしまう自分。
厳しくされた裏返しのような・・・

なんど、家を飛び出そうかと考えたことか。
二階の窓から飛び降りてしまおうか と思ったこともあった。

そんな思いを止まらせてくれたのは、私の仕事に対する気持ちだった。

高校進学の時、大反対する父を説得しに わざわざ担任まで自宅に来てくれて、まじめに3年間学校に通います という念書まで書かされて、
そして許しをもらった市外の高校。

私が不良になるとでも思ったのかな。
電車通いで帰りも遅くなるから心配だったのかな
私立高校で授業料も高いし、なぜそこまでして?と

理由は一つ、 その高校で保育士の資格を取りたかったから。
大学なんて貧乏な我が家には絶対無理だと諦めていたから。
だから高校の間に国家試験が受けられる、専門科のある高校へ行きたかった。

そして私は意地を見せた。
大人達に混じって受ける試験。それを一発で射止めた。

クラスでたった数名しか合格者が出ないと言う難関だった。

その憧れた仕事にやっと就けたから・・・
その仕事を続けるために私は耐えた。

思えば、高校時代からまったくと言っていいほど父親とは話をしなかったなぁ
何でもないことでも腹が立って、

この時期、私のアルバムは家族写真があまり無い。
学校の写真ばかり。

熱があっても学校へ行っていた。
そうそう、確か高3の頃?1学期の期末試験真っ最中に高熱が出て、
でも、親にはまったく内緒で学校へ行っていた。
そして試験最終日 朝、顔を見てびっくりした。
顔一面赤いブツブツだらけ! 体も見れば全身ブツブツ!!
風疹だった。

仕方なく親に話したが、母はきっと悲しかっただろうな。
こんな私に・・・

でも、いつもこんな私でもなかったよ。
ただ、記憶があまりないだけ。
父親との楽しい時間の思い出が、この頃にはあまり無かった。

でも・・・今思えば・・・
あの父の態度も全て、私を愛するが為だったんだよね。
そのことに気が付いたのは私が本当に家を出てから。

あの頃付き合っていた今の旦那との交際を、父は大反対で、
それでも私が別れなかったから、別れないなら今すぐ結婚しろ!そうでないなら即別れろ!
なんて無理難題おしつけられて、
結局若い身空で結婚する事になってしまったけど。

そのせいで私はあんなに好きだった仕事も辞めることになってしまったし。

だけど・・・離れてみてやっと、親のありがたさがわかった。
私はこんなにも愛されていたんだなぁ と

頑固で意地っ張りで、お人好し。

そんな父とその父を陰で支えてきた母に育てられた私。

私の基本は父親譲りなのかも?しれないねぇ

今は背中が小さく見える父だけど・・・
いつまでもあの頃の頑固な父で居て欲しいな
No.10

2005年2月1日(火) 次女
私には二人の娘がいる

二人を育てるとき、出来る限り分け隔てなく!と心がけてきたが
どうもやっぱり違うよねぇ

まず旦那。
上の娘にはやたら甘いお父さんだった。
初めての子供だったし、どう接していいのかわからないのも理由の一つだろう
だから確かに部分的に厳しい反面、やはり甘い。

ところが二人目は?
生まれた時の体が大きい事もあって(4200)、どうも小さいときから接し方が上のこと違っていた(上は3200)

子育てに慣れたせいもあるが?
体が大きい分叱りやすかったと言うか、勘違いもあったのかな
近所でも言われたよなぁ。まだ2歳の頃、すでに4歳くらいに見られて、大きい子を見る目と同じように見られて損な部分があった。
だから、しつけも変ところで厳しくて、私はいつも陰で旦那の方を注意していた。

食事の時も、
子供はこぼすのが当たり前なのに、少しこぼれるだけで五月蠅く注意する。
そんなことをされると子供は気になって食事どころでなくなってしまうのに

だからと言うわけではないかもしれないが
保育園のころから大人の視線を気にする神経質な子供になっていた。

先生は私が口五月蠅いのでは?と思ったらしいが
とんでもない!私は大らかに育てたかった。

なのに、この旦那にしてこの子供・・・って感じになってしまったよ

昔、旦那のお母さんに言われたこと。
「うちのあんちゃんは(旦那=長男)、小さい時、襖一つ破らなかった!学校行くときも電気の線(コンセント)がみんな切れているか確かめな気が済まない子供やった」
と、さも自慢げに私に話した。

でも・・・それってどうよ?
それって良いことか?子供らしい子供か?

つまり、小さいときから五月蠅くしつけた良い子ちゃんだったと。
そういうことなのか?

私は思ったね。
ぜ〜〜ったい自分の子供はこんな子供にはしないぞ!って
襖やぶけば そりゃ悪いよ。でも、一度は破いてみたいやん。

私も子供の頃、指を舐めて障子に穴をあけたりした。
そこから見える世界はおもしろかったさ

でも、いけないことだとわかって、自分で穴ふさぎをした。
それでいいと思う。

でも・・・旦那はこの子供らしい心を潰されて育ったから・・・
そしてそのまんまを二人目の娘にしつけようとした。

もちろん個性が生まれるのは当たり前だけど、
ここまで旦那に似るか?と思ってしまった。

下は甘えるのも下手。
やたらと恥ずかしがって素直じゃない。
これでも2歳〜3歳まではまだ子供らしくて可愛いかったんだけどねぇ

いつの頃からか可笑しいことがあっても家族の前では無理して笑わないし
学校の事も話してくれないし。

小学へ上がってもこんな感じで、ずっと担任からはおとなしいですねぇ と言われてきた。
大人しい?家ではすごい弁慶なのに・・・
口数が少ないぶん、言葉が乱暴になる。
短い言葉で 自分の欲求を聞いてもらおうとするから怒り口調になる。

それを聞いて、また旦那が怒鳴り返す。

本当にもう〜〜どうしようもない。
私はこんなに楽天家なのに

でも、学校ではまったく逆で、物静かで先生の冗談にも笑おうとしないような子供だった。
有る意味心を開いてくれない難しい生徒だったかも
友達とはごく自然に笑って話しているのにね
だからこの頃の家での写真はぶっきらぼうばかり、

何とか笑顔を撮りたくて、隠れてフォーカスしにいったよ。

神経質なのも旦那譲りなのかなぁ
忘れ物チェックは必ず前日にするし、人一倍人目は気にして先生の言うことは絶対破らないし、
悪いことは悪いこと!って譲ろうとしない性格?
この性格とでかい体格が災いして、低学年の時、事件が起きた
自分より小さい友達に 自分は良かれと思って注意してたのだろうけど
ちょっと押すだけで、その子はすごい飛ばされて、一見いじめに見えたことがあった

一度だけよろけた拍子に怪我もさせてしまったこともあった。
先生から話をうけ、娘に話を聞いて、
でも、怪我をさせたことはいけないことだと、二人で家まで誤りに行った。

でも、その友達は娘のことは嫌いじゃないと言ってくれた。
いじめに遭っているわけじゃないと。
だから親もあまり娘を攻めはしなかったが、でも、事実は事実。

悩んだね。
悪いことを黙認して見ていろとも言えないし
でも、自分の体は大きいのだからね と話したら、帰ってきた答えが

「お父さんも大きいけど私を叩くよ!」

あぁぁそうかぁ   ショックだった
旦那は平気で下の娘には手を上げる人だった
暴力とまではいかないが、感情で叱るタイプだった。
上の娘にはこれが無かった。
体が小さかったし一人目だし、叱るにも怖々だったかも
だが下の娘は・・・
私は再々、旦那に、「叱るときは一呼吸してから、それからまず口で注意して叱って!」と注意した。

旦那は昔の父親そのものだった。
違うところは、肝心な時には叱らないで不必要な時に叱ること。

その結果がこれだ

そして今、高校生となってもその性格はあまり変わらず、
やっぱりぶっきらぼうで、神経質で、恥ずかしがりやで・・・
感情を表に出すのが下手なんだね。でも、私には甘えん坊かな

こんな感じだから無理に干渉しようとすると逆に引きこもってしまうから下手に近づけなかった。
勉強もまるで放任主義だったなぁ、でも全然心配することなく
この前の期末もクラスで2番だった。

ここも旦那と似てるなぁ
旦那も高校ずっと主席だった。これにはびっくりしたね。
でも、部活とかバイトとかまるでしない人で、私とは正反対!
この似ないでいいところまで旦那似の娘。

この先、どんな娘に成長するのかなぁ
今は反抗期なんだよね。私もそうだったから

でも、きっと今に、穏やかに話せる女性に・・・
いや、私の娘だからそれなりにだろうけど、
人に優しい心の持ち主になってくれればそれでいい。
で、願わくば、もっと社交的な人になってほしいなぁ

母は貴方の引っ込み思案で妙に臆病で神経質なところが心配だよ〜
社会人になってから苦労しそうで気がかりなんだよ
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